【4-1】吉備皇統の系譜と吉備から見た日本史観
(巫女・岩崎の家伝の概要)
目次
本資料の概要
【足守時代(備中時代、総社時代、倉敷時代)】 :正史の該当時代「弥生、古墳、飛鳥時代」
【新ヤマト時代(後吉備時代)】:正史の該当時代「奈良、平安、鎌倉時代」
【第一吉野朝時代(南北朝時代)】 :正史の該当時代「建武の新政、南北朝時代」
【潜南朝時代】 :正史の該当時代「南北朝時代」
【後南朝時代】 :正史の該当時代「室町時代」
【第二吉野朝時代(美作時代、植月時代)】 :正史の該当時代「室町、戦国、安土・桃山、江戸時代」
【薩長土肥時代】:正史の該当時代「明治時代」
【戦後】
本資料の概要
◆本資料は、岩崎(巫女神道吉備派代表)が既に所有・把握している吉備史・家史に、最近譲り受けた巫女各家に残る吉備史・家史を重ねて理解したところ、理路整然と判明してきた吉備史および日本史の一部内容をまとめたものです。
◆下方に示した巫女各家や岩崎家の家書、家伝、家史、私史、口伝、系図、家宝などを元に、既存文献と整合性を取っています。(うち一部は、研究のため岩崎に貸与、継承、移管予定。)
◆以下の機関からはたびたび門外不出要請(事実上の学会発表や学校教科書掲載要請の阻止要求)を受けている一方で、郷土史を継承する一部の地元住民や、一部の教派神道や秘教神道とは親和性の高い内容となっております。今後、岡山県の巫女らや岩崎が発表するにしても、政局・政治情勢および宗教団体の動向を観察しながら小出しにする計画です。最終目標は、吉備皇朝の実在を国が認めるのを見届けることですが、無理はしません。「国史」や「正史」とは、国・政府が国家の真正の歴史として啓蒙・教育している歴史を指しますが、郷土史・家史のうちに考古学的に正しい歴史があるならば、本来はそれを「正史」とすべきであると考えます。
国・政府機関(宮内庁、文科省、文化庁)、民間宗教(神社本庁、靖国神社、浄土真宗、創価学会、念法眞教、その他の旧国家神道系政庁・機関・大規模単立宗教法人)、保守系政党・政治団体(自民党、日本会議、神道政治連盟)など。
【足守時代(備中時代、総社時代、倉敷時代)】
(正史:事実上の正史『古事記』や公式の正史『日本書紀』が基盤 ←→ 吉備各家の家史:吉備王朝を渡来系王朝が畿内にコピーし、畿内王朝として定着)
■初代 神武天皇~第37代 斉明天皇まで
●概ねどの巫女神道でも吉備国の王とする説が優勢。岩崎も、現在の北朝系皇統は天智・天武天皇による簒奪王権の系譜で、「ヤマト・敷島・蜻蛉島・大八洲・難波・百舌鳥・マホラバ・吉野」や和風王号の「オホキミ・スメロギ・スメラミコト」は吉備発祥、国号「日本」や漢風王号の「天皇」号は天武朝で初登場し、斉明天皇以前は吉備の女王(巫女王)・男王連合政権をモデルにした創作天皇(『古事記』・『日本書紀』)と考える。その他の一部学者においても、学説の合致を見る。
●巫女各家の家伝は、埴輪が古代吉備で巫女祭祀や吉備王の葬礼祭具として発祥し、ヤマト王権がこれを大王の威厳を示す結界型に盗作・改作して畿内の大規模前方後円墳に設置したことを示す。このたび、黒住家、岡本家のみならず、新たに備前~美作の各物部神道家も、以下の発掘以前から口伝していたことが確認できた。
→【証明済み】埴輪が吉備発祥であることが考古学的に証明済み。当然、宮中祭祀の仏教化を狙う新王朝(畿内朝廷)と蘇我氏らによる原始神道の排撃と連動する史実と理解できる。吉備埴輪は「特殊器台・特殊壺」と命名され、学校教科書に掲載。考古学的・科学的観点から証拠が極めて強固であったため、宮内庁・文化庁が全面的に認めた例。
●古代吉備国時代の当時に記録された書物は、おそらく現存していない。(それらはおそらく、『古事記』・『日本書紀』の国史・正史化に伴って焚書となっていると思われる。また、あったとしても、万葉仮名当時かそれ以前の、中国から直輸入された漢字のみをもって吉備国民を平和的に統治した中国人・朝鮮人・渡来人などの支配層が書いたものしかあり得ない。)
【新ヤマト時代(後吉備時代)】
●古墳・飛鳥時代のほとんどの時期は、吉備(ヤマト)の総社から足守川流域、吉備の中山(これが天香具山)に吉備王=ヤマトの大王の都が展開し、吉備王朝と畿内王朝の両立または迭立であったとされる。その後、吉備王朝はほぼ完全に滅亡。奈良時代の女性天皇が吉備の血筋であり、吉備は皇統を吉備女系皇統と見て、平安・鎌倉時代を通じて皇統に服従。しかし、南北朝時代に入り、南朝に古代吉備を見、当の南朝天皇も吉備を懐古し、吉備国復興を目指すようになる。
【第一吉野朝時代(南北朝時代)】
(正史:南北朝時代、両統迭立 ←→ 吉備各家の家史:南朝所在地の吉野は奈良ではなく岡山)
■1318~ 第96代 後醍醐天皇
●建武の新政後、足利軍が開幕し、光厳院政と光明天皇擁立をバックボーンに北朝の基盤を構築。後醍醐天皇は、三種の神器(吉備の巫女の神託を帯びないレプリカと言われる)をあえて譲り渡し、古都である吉備国の「吉野(川)」の地を思わせる憧憬の南方「吉野」に退避、仮王朝を建設。
(一部の巫女は、これが既に美作吉野であり、南方でさえなく、北極星に北面する北朝から見た辺境の地を指す蔑称の「南朝」を利用するために奈良吉野を捏造したのであるとしている。)
■1339~ 第97代 後村上天皇
●後醍醐天皇の遺志を継ぎ、吉備遷都を画策。かつての南方の総社地域でなく、北方の津山・美作の地を選定。あるいは、既に美作に本拠を置いており、御所・王都の拡大に入る。南朝再興の動きを察した北朝側は、古代~当代吉備王朝の地名を奈良県中央部に次々と転写、南朝所在地が奈良県(治天の君=北極星の座す北朝から遠く古めかしい旧都)であると創作。
■1368~ 第98代 長慶天皇
●北朝が南朝への締め付けをさらに強化。長慶天皇は、吉備(とりわけ美作)を「吉野」のみならず「大吉野」と呼び、南朝正統をさらに主張。
→岡山県大原町(現美作市)を構成した大吉村・大野村は、大吉野が起源であると考えられる。
【潜南朝時代】
(正史:後亀山天皇が突如吉野へ精神不調の行幸 ←→ 吉備各家の家史:美作吉野での古代吉備=日本の復興計画再開)
■1383~ 第99代 後亀山天皇
●国学~現宮内庁・文化庁の正史では、ここで明徳の和約(1392年)が成り、北朝・後小松天皇に三種の神器および皇位を返上、南北朝合一が成り、第100代以降の天皇は全て北朝血統とされる。また、1410年、後亀山天皇がかつての南朝吉野を訪れた(潜幸)としている。吉備側では、1392年、美作吉野から後亀山天皇が入京し、京で困窮した後、1410年に美作に戻り、再度「吉野」・「南朝」を掲げ、古代吉備朝=南朝の復興を模索。
■1410~ 第100代 恒敦親王(王)
●宮号は「小倉宮」。「天皇」号を北朝に完全に剥奪され、「親王」号しか確認できない。
■1422~ 第101代 聖承親王(王)
●宮号は「小倉宮」。「天皇」号を北朝に完全に剥奪され、「親王」号しか確認できない。足利義教が南朝後裔断絶を命じる。
●建武の新政から南北朝時代、明徳の和約を経て、令和の現在に至るまで北朝系天皇が正朝(正史)とされ、北朝以外の王統が消滅したことになっているが、後南朝なる王朝が岡山に成り、かなり長期に継続したことを、当該家史が示す。
●王朝の呼称・・・吉備皇朝、吉備王朝、吉備正朝、作陽皇朝、東作王朝、後南朝、吉野皇朝、大吉野朝、西南朝、美作王朝、美作後南朝、作州南朝、大覚寺皇朝、後大覚寺党王朝、正系皇朝吉備など。
●巫女神道吉備派と吉備発祥の教派神道(黒住教、金光教、神習教)では、「吉備~」の呼称が優勢。全国的にはもっぱら「後南朝」で知られる。
●御所の呼称・・・吉備御所、吉備内裏、南朝御所、後南朝御所、吉備吉野、大吉野、美作御所、植月御所、津山御所など。
●吉備皇朝(南朝、後南朝)に協力した勢力
南朝方親王、四条家、結城氏、名和氏、千種氏、北畠氏、新田氏、日野氏、楠木氏、和田氏、菊池氏、山名氏、岡本氏、黒住氏、(これ以降、主に後南朝以降の新興協力勢力)森氏(美作・津山藩藩主)、三浦氏、江見氏、成見氏、有元氏、安東氏、草刈氏、田口氏、津村氏、岩崎氏、難波氏、新免氏など。(北朝系の公家や武家に比べ、明治時代に華族に列せられた家系が極端に少ないことが分かる。)
【後南朝時代】
(正史:南朝残党による北朝への抵抗 ←→ 吉備各家の家史:四条天皇夭折時、称光天皇夭折時などに皇統のすり替えがあり、北朝は北朝でさえなく、吉備皇統が元の吉備国王=天皇。後南朝と以下の吉野朝の天皇は別族でなく、同一の天皇である可能性がある。)
■1443 後南朝初代(102) 金蔵親王(金剛主)
●これを後南朝初代とする説が最多。宮号は「万寿寺宮」。
■1443~ 後南朝2代(103) 勝公親王(自天王)
●宮号は「北山宮」。歴代南朝天皇の遺志を継ぎ、伊勢神道(外宮神道)を継承し、天照大神(北朝・伊勢内宮が主張する皇祖神)の上位に天地開闢神・天之御中主神を戴く神儒仏融合の汎神神道を展開。天照大神を絶対視する北朝皇統と対峙。
■1457~ 後南朝3代(104) 尊雅天皇(南天皇)
●宮号は「十津川宮」。
■1471~ 後南朝4代(105) 西陣天皇(西陣南帝)
●宮号は「小倉宮」。応仁の乱で山名氏率いる西軍が新主(天皇)として擁立。正史側では、美作王朝の存在は抹消。
【第二吉野朝時代(美作時代、植月時代)】
(正史:存在を封殺←→吉備各家の家史:南朝は依然として継続した。南朝所在地の吉野は奈良ではなく岡山)
■1410~ 吉備後南朝創始者 小倉院大上天皇
●後亀山天皇の王子とされる。以後、一貫して後亀山皇統の血統から美作南朝天皇が出る。
■1443~ 吉備後南朝初代(101) 高福天皇(尊義天皇)
●美作遷都。ここで「南朝=古代吉備=正朝=スメラミコトの源泉地=三種の神器」、「北朝=簒奪王権=三種の神器のレプリカ王朝」としての吉備帰朝宣言があったとされる。北朝に対し三種の神器の奪還計画を実行した伝承あり。正史における禁闕の変(1443)に比定されると考えられる。
■1451~ 吉備後南朝第2代(102) 興福天皇(尊雅天皇)
●北朝が美作御所を襲撃、三種の神器の再奪還に成功したとあり。正史では「奈良の吉野南朝を襲撃」としているが、家史ではこの「吉野」は岡山県の吉野(旧吉野郡(現英田郡)、美作市)であるとしている。正史における長録の変(1457年)に比定されると考えられる。
■1458~ 吉備後南朝第3代(103) 忠義天皇
■1477~ 吉備後南朝第4代(104) 尊朝天皇(親王)
●同天皇、延臣、吉備の郷民らが南朝を追憶した『吉野拾遺』の編纂を開始。→現在、保守系の学者を中心に、偽書や虚像の書の扱い。
■1546~ 吉備後南朝第5代(105) 尊光天皇(親王)
■1568~ 吉備後南朝第6代(106) 尊通天皇(親王)
●この頃、織田・豊臣政権も吉備南朝の存在を把握、監視強化。正親町天皇、後陽成天皇は吉備南朝と密約、明徳の和約の女系履行(吉備天皇の女子を北朝天皇の后妃とするか、その逆)で一致したとされる。
■1597~ 吉備後南朝第7代(107) 尊純天皇(親王)
●江戸幕府が吉備南朝の存在を把握、後水尾天皇の南朝志向(北朝解散志向)を牽制。徳川方への遠慮を見せた美作・津山藩森家(外様大名)当主・森忠政に対し、吉備・山陰・山陽の三浦氏、江見氏、難波氏、黒住氏、岡本氏(岡本軍)が南朝(美作)正統を説き、忠政は思い直し、「再び京都皇統と美作皇統との両統迭立を幕府に申し出る」と約束したとある。忠政は津山城を築き、南朝守護の砦となったとされるが、正史では記録していない。
■1626~ 吉備後南朝第8代(108) 高仁天皇
●後水尾天皇も密かに北朝傍流を自覚し、かつ幕府の天皇悪用に堪えかねて、吉備王朝に相談、皇位を吉備(=真正ヤマト)に返上し、かねての南朝正統の意思を伝え、吉備王朝が受諾、両朝最終合一の密約が成ったとされる。これを知った幕府が合意を圧殺。対して、吉備天皇、延臣、郷民らが『南方紀伝』・『桜雲記』を編纂。幕府が介入して、吉野を奈良に再比定。森忠政は、高仁親王への譲位を約束しながら履行しない後水尾天皇に迫り、さらに第三代将軍・徳川家光にも問いただすも、毒殺される。さらに家光軍は、京に散在し密偵活動をしていた吉備南朝大名らを、同じく密偵活動で発見しては襲撃した。後水尾天皇の吉備正統志向を再確認した吉備側によって高仁天皇が即位。
■1697~ 吉備後南朝第9代(109) 良懐親王
●幕府が親王号を剥奪したとされる。また、幕府は、後南朝残党を根絶させるため、後南朝に協力的態度を取った藩主・森氏を取り潰し(改易)、美作御所の全領地を没収。良懐親王は「我王」を名乗り、西大寺~砂川~西大寺松崎に新南朝を建てるため、南朝残党と共に吉井川を下るも、北朝・幕府軍が急襲し、高瀬舟が転覆して水死、南朝再興は果たせず。
■吉備後南朝第10代(110)
●一部の残党が西大寺松崎地区~吉井川流域にて後南朝再興を模索。一部は美作に戻り、津山城下に後南朝を継続。これ以降、各家は基本的に系譜を隠し、家どうしでのみ研究し、すり合わせている。天皇はあくまでも西大寺御所ではなく旧美作植月周辺で即位している模様。
■吉備後南朝第11代(111)
■吉備後南朝第12代(112)
■吉備後南朝第13代(113)
■吉備後南朝第14代(114)
●岡山の男子シャーマン・神官らによる黒住教、金光教、神習教が相次いで立教。これらに所属した巫女・シャーマンが後南朝の宮中祭祀を援護、参加。吉備巫女神道の一派、岸本神道が大成した吉備楽・吉備舞を取り入れ、北朝呪詛の舞を秘伝する。吉備楽・吉備舞は、その呼称とは裏腹に、今日に至るまで「吉備の雅楽や舞」ではなく、これら吉備教派神道・吉備巫女神道の文化であり、神社本庁・岡山県神社庁傘下の神社(吉備津神社、吉備津彦神社、岡山縣護國神社など)は忌避している。
■吉備後南朝第15代(115)
【薩長土肥時代】
■吉備後南朝第16代(116)
●1873年、薩長政府が、南朝を守護した津山城の廃城を決定、破壊。さらに巫女禁断令、陰陽道禁止令、修験道禁止令を発令。吉備神道・伯家神道に近い平田復古神道の神官らを傀儡として、神道国教化(神道の一神教化)を計画するようになる。とりわけ、吉備巫女神道を監視。中でも、良懐親王を祀った吉野川・吉井川流域の巫女神道を威圧、破壊。このとき、長州藩士らが吉備の巫女・女子の祭祀について「鈴振り神道」・「淫祠邪教」と述べて侮蔑している。吉備巫女神道は一部廃絶となるも、残った神法は秘教秘伝化して存続。
●当該家史は、いわゆる教派神道(神道十三派)のほとんどが吉備発祥であることを示し、吉備神道の集大成である伯家神道(吉備出身の高浜清七郎一派が吉備で温存)を背景に持つとしている。神道を天照大神皇統(明治天皇)一辺倒の一神教に改作しようとした薩長藩閥からの真正神道奪還運動であるとしている。なお、孝明天皇や明治天皇自身は、吉備伯家神道と密かに結託し、明治政府を煙たがった上、長州藩が吉備神道を宮中から追放したために天皇が悲しんだと記録している。明治政府による南朝正統論・建武中興十五社は、吉備封殺と皇民欺瞞のための懐柔策であるとしている。
●また、「教派神道」とは、天皇をヤハウェ、ゴッド、キリスト、アッラーなど万教の絶対者の地位を超越、支配、専有する絶対者の絶対者と位置付けた国家神道による呼称であり、国家神道(薩長政府~戦前政府は、これを宗教でない=非宗教神道と位置付け、皇民への強制は信教の自由の侵害ではないとした)が、吉備の神道を(表向きは「教派」として)事実上排撃するための偽装の呼称であるとしている。
●岩崎の母方の出自の黒住家は、吉備土着の黒住集団に端を発し、現在岡山の吉備の中山を巡るように局在する黒住姓の分家の一つである。我々の黒住家が本家より分家した時代よりも後に、教派神道の黒住教宗家が本家から出たことが確認できる。天香具山を吉備の中山とする家伝は我々、非黒住教の黒住家のものであるが、後から南下してきた岡本家(下記)の家伝には勿論乏しい。
●岩崎の母方の出自である岡本家は、古代吉備国の中心地(吉備の中山の麓、足守川流域)に居を構えているが、「南朝日本」の家臣を自負しており、「北朝日本」(北朝天皇、足利氏、織田・豊臣政権、江戸幕府、薩長藩閥=明治政府)から弾圧・襲撃を受けた美作国の南朝の都から退避してきたと記録されている。岡本氏秀(岡本龍実)、岡本秀広(岡本龍晴)らの名が系譜に見えるほか、「岡本軍」の呼称がある。記録では、奈良の吉野は偽装で、吉野は「吉備の山野」の意、「吉野川・吉井川」は「吉野の都から流れ出づる川」、つまり吉野は吉備・美作にあり、奈良吉野の桜も吉備吉野の桜で(吉備京封印のため強引に奈良吉野を名所として作ったもの)だとする。美作の吉野や御所・津山城を「古吉野」や「大吉野」、「大原」、「高倉」、「高野」と呼び、北朝が正史において南朝の所在地だと記述した架空の奈良の吉野に対峙した形跡がある。その美作吉野にあった南朝(吉備皇朝。正史では無論、奈良の吉野としている)の衰微により、岡本軍は、吉備南朝天皇による南朝の偽装解散計画(後小松天皇以来の自称正史・北朝からの攻撃に対する撹乱作戦)に協力して、一時的に見せかけのために、黒住氏、江見氏、成見氏などと共に倉敷・総社に南下し、足守川周辺で吉備京開京の計画を練ったが、薩長土肥藩閥(明治政府)による吉備に対する包囲網・排除策により、吉備王朝復興の夢を見ないまま、現地に定着したと記録されている。岡本軍の吉野朝廷からの南下は、岩崎の母および巫女各家にまで口伝されており、結果的にここで岩崎本人にまで到達したことになる。
●岩崎の父方の出自である津村氏は、巫女協力資料で別途示した阿新神道の家であり、ドリーネやウバーレを信仰しているため、縄文神道とでも名付けるべき要素を含む。
●岩崎の父方の出自である岩崎家は、池田家(岡山藩池田氏が世に登場する以前からの池田家の分家)の分家であり、岩崎の曾祖母の代に創設され、岩崎の父の代以前までは女系継承。
【戦後】
●戦後直後、GHQの統治下において、日本政府による不敬罪への取り締まりが緩んだ隙を突き、熊沢天皇をはじめ皇位を僭称する者が次々と現れた。正史上はその全てが荒唐無稽なものと一蹴されるが、僭称者の多くは南朝天皇を自称しており、今回言及した吉備各家の家伝と共通する家伝を背景に自身の正統を主張するものであった。熊沢天皇による西陣南帝までの南朝の立場についての理解も、何ら荒唐無稽なものではない。
家書、家史などの一覧
★別掲した巫女神道各家に関する記録、系譜、口伝(吉備派の道統一覧を参照)
★黒住家に関する記録、系譜、口伝(黒住教宗家以前からの分家)
★岡本家に関する記録、系譜、口伝(浦上家家臣岡本氏、岡本軍後裔)
★津村家に関する記録、系譜、口伝(阿哲・阿新津村氏)
★岩崎家に関する記録、系譜、口伝(黒住家、岡本家、津村家の合流家系で、岩崎純一の出自)
★吉備神道の史実に関する私史・口伝(継承内容は上記機関が主張する正史に反する)
★埴輪の発祥や造山古墳など、吉備の祭器文化・古墳文化の史実に関する私史・口伝(継承内容は上記機関が主張する正史に反する)
★吉備皇朝(後南朝、美作王朝、作州南朝)の史実に関する私史・口伝(継承内容は上記機関が主張する正史に反する)
★吉備天皇(古代吉備国~飛鳥時代~後南朝天皇)皇統譜
その他の参考文献
上村敦之『鶴山城挽歌』美作出版社
太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店
田中千秋『植月御所の真相』』温羅書房
西村彦次『美作後南朝と森一族』大阪歴史懇談会
早瀬晴夫『消された皇統』今日の話題社
原三正『美作天皇記』おかやま同郷社
日高一『津山城物語』山陽新聞社
霊仁王『正さねばならぬ美作の歴史』美作後南朝正史研究会
横山高治『吉野山中に慟哭の秘史』大阪歴史懇談会
安居隆行『後南朝皇胤尊雅王について』大阪歴史懇談会
森茂暁『闇の歴史、後南朝』角川選書
三好基之『新釈美作太平記』山陽新聞社