手作業翻訳版 - 総合トップ
日本語 English 中文 한국어
日本軍大本営・中央政府による岡山の扱い : 大日本帝国陸軍岡山歩兵第10連隊・岡山近衛兵将校子孫会(岡将会) : 岩崎純一のウェブサイト
サイトレイアウト切り替え
  • 主にデスクトップ向けのレイアウトに切り替える
  • 主にラップトップ向けのレイアウトに切り替える
  • 主にタブレット向けのレイアウトに切り替える
  • 主にスマートフォン向けのレイアウトに切り替える
  • 主に旧型モバイル向けのレイアウトに切り替える
ページ内移動
※ スマホ、ケータイ向けレイアウトの初期設定では、「▼現在のページの本文」タブのみ開いております。

日本軍大本営・中央政府による岡山贔屓(びいき)と岡山見放しの歴史


岡山という土地柄 ―日本神話・吉備王国と大東亜戦争―

 現在、岡山県は、両隣の広島県や兵庫県よりも人口が大幅に少なく、県庁所在地の岡山市は、政令指定都市中で人口が最小の都市です。両隣の県庁所在地たる広島市、神戸市に大幅に遅れて、しかも人口や人口密度よりも「平成の大合併」による面積肥大によって政令指定都市をぎりぎり勝ち取ったにすぎない上、熊本市、静岡市、浜松市など他の政令市や中核市にも人口で追い抜かれています。

 しかし、岡山・倉敷は、江戸時代末期までは山陽地域における枢要な城下町・商家町でした。それ以前に、岡山地域は、大和朝廷に反抗的だった出雲王国などに比べれば、中立的な吉備王国として、古事記・日本書紀や吉備豪族の時代から朝廷と強い結びつきを持ってきました。

 県内には、縄文・弥生文化や古代吉備王国の繁栄により、国内最大級の墳丘墓(楯築墳丘墓など)、大和朝廷に次ぐ規模の古墳群(造山古墳など)、マヤ文明型ピラミッドの仏教遺跡(熊山遺跡)など、有史以前、朝廷・日本誕生以前に遡らなければ実態が分からない物珍しい史跡が多くあります。

 このような歴史的経緯から、明治に入った時点で、岡山藩は薩長土肥などの雄藩に次ぐ規模を有し、県全体で見ても、爵位を与えられ華族に列せられた者・家、あるいは士族とされた者・家の数は、両隣の二県を大幅に上回っていました。明治天皇を戴く中央政府による、期待されたとも恐れられたとも考えられる優遇措置です。吉備国は現在の岡山県と広島県東部を占めていた上、廃藩置県によっても現在の広島県東部(福山市・庄原市など)が小田県・岡山県に編入されていたことも影響していますが、当時はまだ、同地域の住民の帰属意識自体が岡山のほうに向いていました。

 岡山の華族・士族には必然的に、皇室・公家・貴族・武家と血縁・姻戚関係にある家が多くなっています。しかし、岡山の華族には、京都や奈良や東京と違って、公家・貴族・社家系華族(旧華族)よりも、「新華族(勲功華族)」と呼ばれる大名・武家や政治家、実業家の華族の家系が多くなっています。

 首相の犬養毅も、組閣流産で有名な宇垣一成も、A級戦犯として死刑に処せられた土肥原賢二も、岡山県出身です。敗戦後の1952年、昭和天皇第四皇女の順宮厚子内親王が、元華族・岡山藩当主ながら池田牧場(のちの池田動物園)の経営者の顔を持つ池田隆政に嫁いだことは有名な話です。地元では、「日本男児の中で実力勝負で皇女に辿り着けるのは吉備戦士だけだ」と、大げさな文句も聞かれました。

 最近では、橋本龍太郎や江田五月も岡山出身ですし、岡山周辺の他の「郷土」にも基盤を据える片山虎之助(おおさか維新の会共同代表)や片山善博(元鳥取県知事)も岡山出身、平沼家(平沼騏一郎、平沼赳夫など)、鳩山家(鳩山威一郎、鳩山由紀夫、鳩山邦夫など)、菅家(菅直人など)も岡山県がルーツ(または岡山県出身)です。

 あるいは、宗教の発祥や開祖の輩出が極めて多く、浄土宗宗祖の法然や臨済宗宗祖の栄西も岡山県出身です。「幕末三大新宗教」と呼ばれた新宗教についても、二つは岡山県発祥で(金光教と黒住教。残る一つは天理教)、岡山藩の民・岡山県民はもちろん、孝明天皇・皇族・公家・貴族・岡山藩・武家・華族・士族からの帰依・尊崇も受けて発展しました。

 どんな神仏の仕業か分かりませんが、岡山・吉備地域とは、昔からそういう土地柄であり、そういう風が吹いているのでしょう。そういう風の吹き回しのまま、かつての戦争にも突入していったわけです。岡山県は、「開戦時までは」天皇・大本営・東京中央政府の恩寵・優遇をあからさまに受けた土地です。

 そのような風の吹き回しの表れとして、第10連隊歩兵と、陸軍の花形と言われ天皇・宮城を護衛する任務を担った近衛兵の、両方を輩出している家系がいくつも存在します。私(岩崎)のように、明治以来、父系・母系の双方が第10連隊歩兵の家系と近衛兵の家系のいずれかである子孫もいます。

 また、岡山県出身の近衛兵・幹部将校には、黒住宗忠・黒住家や金光大神(赤沢文治)・赤沢家と血縁・姻戚関係にある軍人が少なくありません。私(岩崎)自身も、黒住教開祖とは二十親等以上離れており、黒住教教徒でもありませんが、一応は黒住家傍流を先祖に持っています。

 金光教も黒住教も、戦前は教派神道たる神道十三派に分類されていたため(現在は、特に天理教と金光教で、神道・仏教・キリスト教を折衷した教義が見られる)、教会は神社・神宮そのものであり、これら新宗教の巫女・社家も存在します。特に黒住教は、古い神道色を残しています。

 当然、県内の神社本庁所管の神社や古くからの巫女家・社家と軍人の関係にも深いものがあります。岡山県護国神社、吉備津神社、吉備津彦神社、今村宮、岡山神社、熊野神社などの大規模神社はもちろん、伊勢神社、葦守八幡宮、備前国総社宮、牛窓神社などの県内の神社には、岡山県出身の近衛兵・幹部将校の子孫の巫女たちが奉仕しています。私(岩崎)が最も関心を持っている要素の一つです。

 我々は、岡山の郷土部隊や岡山県出身の近衛兵の栄光と悲運の両方を考えるにあたり、このような壮大な歴史的経緯(当時の大本営・東京中央政府・日本国民=皇民が持っていた神話・宗教・郷土意識、日本人の気質、岡山県民の県民性)についても、数百年・数千年レベルの視野で見つめることが必要だと考え、探究しています。

 考えてみれば、「日本三大奇祭」の一つとされる西大寺会陽(裸祭り)などの岡山の祭りは、岡山なりの土着的で屈強な県民性があるがために、残り続けているのかもしれません。

 結局、岡山と皇族・華族・士族の縁、岡山と神道の縁、岡山と新宗教の縁などは、全て同じ問いの別称であり、日本神話や大王・豪族時代からの吉備・岡山の土着的特質であり、ひいては後述のように、不幸にも当時の大本営・中央政府による無謀な期待の根拠として利用されることになったわけです。


岡山県出身近衛兵の悲運 ―「非華族系エリート戦士」への期待―

 以上のような歴史的経緯を踏まえて、岡山の軍人・兵士たちに期待された過剰な「精鋭性」について、まずは岡山県出身の近衛兵から見ていきます。

 本会が岡山の近衛兵から共通して聞いてきた感懐は、「士族・武家・卒族(足軽・同心)・農民出身の屈強な心身を持つ男子が多かった岡山の近衛兵は、品行方正すぎるイエスマン集団としての近衛師団・近衛連隊内部において、やや異質な優遇と期待を受けたが、それだけに実動部隊として動かされ、苦しかった」というものです。これがどういうことかを考えてみます。

 近衛兵とは、禁闕守護(きんけつしゅご)や鳳輦供奉(ほうれんぐぶ)といった、天皇・宮城を護衛する特殊任務に当たる兵士であり、やがて近衛連隊、そしてその上部組織たる近衛旅団・近衛師団が整備され、それらのもとで任務に当たるようになります。
(「近衛兵」とは、古い用語で、師団・連隊整備後は「近衛歩兵」・「近衛騎兵」などと具体的に呼ぶのが普通ですが、「近衛兵」でも構いません。「近衛歩兵連隊」を「近歩(きんぽ)」とするなど、略称も多く使われました。)

 近衛兵は、一般の徴兵にも志願にもよらず、文武両道・品行方正・質実剛健、国家に対する勲功ありなどと認められた家系の男子から選抜された精鋭部隊であるため、志願したところで近衛兵になることは到底無理でした。

 ただし、その近衛兵の中でも、岡山県出身者は、様々な歴史的・神話的・土地柄的な事情から重用される傾向にありました。これを理解するには、明治初期から戦前戦中期までの華族制度と近衛兵の実態から見なければなりません。

 近衛兵の選抜にあたっては、文武両道・品行方正・質実剛健や勲功という条件でさえ、当初は建前であって、実際には家柄・出自や親族の犯罪歴などに関する憲兵隊による身上調査が最優先で行われました。まずは華族、次いで士族の家系の男子から近衛兵が多く抜擢され、その結果、近衛師団・近衛連隊は当初、貴種血族の「天下り先」のような状況にありました。皇太子も、まずは近衛歩兵とされました。従って、前述の歴史的経緯を踏まえれば、岡山県出身の近衛兵にも、まずは華族、次いで士族出身者が多いことは、容易に予想がつきます。

 近衛師団・近衛連隊は、日本軍が善戦していた1942年までは、そもそも皇居が米軍・連合軍に爆撃・砲撃された際に前線に立って応戦したり、天皇・皇族・公家が殺害されたりするような最悪の事態をほとんど想定していないため、華族などの貴種血族の軍人・兵士の安寧な天下り先になるのは当然のことでした。とりわけ、近衛歩兵第1連隊と第2連隊は、戦わないことにその価値があるような部隊でした。本腰を入れて宮城の御文庫を昭和天皇の防空壕として強化し始めたのは、昭和20年5月の空襲による宮殿への延焼後のことです。

 華族制度自体は、当然現憲法では(表向きは)禁止されている特権的な優遇を伴う栄典制度であり、明治の当時でさえ、爵位乱発による新華族(勲功華族)の激増などの様々な問題もありました。しかし、岡山に華族・士族が多いというだけなら、古代の吉備王国から江戸末期の岡山藩や備中松山藩に至る岡山の繁栄の実情を踏まえたものであり、当時の大本営・中央政府による「岡山びいき」とまでは言えないことは確かです。

 問題なのは、近衛兵は、血を流す戦闘に優先して禁闕守護(きんけつしゅご)や鳳輦供奉(ほうれんぐぶ)の任に当たるといえども、天皇・宮城を「体を張って」防衛する軍隊であることに変わりはないにもかかわらず、当初の選抜では身分にこだわりすぎた(華族・士族の男子というだけで多数重用された)ことです。

 アメリカや連合軍に勝利するための戦闘力・軍の統率力と家柄の良さとは何の関係もないはずですが、実際は体格・覇気に乏しい華族の男子も召集されていました。もちろん、戦況の悪化と共に、次第に粗雑な再編と外地出兵が繰り返されるにつれ、体格問題はむしろ解消に向かい、部隊の性格も好戦的・反動的になっていったようです。元より、一部の近衛兵らが秘めていた反動的な性格は、二・二六事件に近衛師団・近衛歩兵第2旅団・近衛歩兵第3連隊が反乱軍を出したことを見ても分かります。

 ところが前述のように、岡山県から輩出された華族・士族には、当初から公家・貴族・上級武家出身の華族・士族だけではなく、本来華族・士族に列せられることができない身分ながら勲功で華族・士族になった者・一族が多くなっています。勲功華族は当初、旧華族からは格下と見なされました。しかし、勲功華族出身の近衛兵の抗戦能力は、当然一目置かれるものがありました。

 また、私(岩崎)の家系のように、中級武士・地主・教職の家系から陸士を経て近衛兵に抜擢された場合もあります。このような家系は、本来なら旧華族から見れば煙たい存在だと言えますが、いよいよ戦況が悪化し、近衛兵でさえ外地に駆り出されて戦闘を展開するようになるにつれ、岡山のような地方出身の屈強な近衛兵に異様な期待と重圧がかかるようになります。

 当然、背水の陣において前線に立ったのは、勲功華族や非華族、士族・卒族以下の身分の地方兵士でした。こうして、岡山の近衛兵たちには、日本神話的・素戔嗚尊(スサノオノミコト)的な英雄性が付与されていき、知らず知らずのうちに重い責任を負わされることになります。

赤柴八重蔵大佐(岡山歩兵第10連隊長、近衛第1師団長)  戦況の暗転期に近衛第1師団長に抜擢されたのは、岡山の郷土部隊である歩兵第10連隊(後述)の連隊長であった赤柴八重蔵でした。本籍は新潟ながら、姫路・岡山で育ち、この地域の戦士たちを指揮してきた赤柴は、彼らの勇猛果敢さを身に染みて知っていました。

 しかし、近衛兵の「イエスマン」気質の典型的な、かつ最後の顕在化と言える「宮城事件」では、多くの岡山県出身の近衛兵も巻き込まれ、捏造された命令で動かされる結果となりました。多くの近衛兵が、陸軍省将校の井田正孝中佐、椎崎二郎中佐、畑中健二少佐らの策謀に騙されて宮城を占拠することになり、岡山の兵士たちも東京(一部はマレーやスマトラ)で悲運に散ることになりました。

 ただし、宮城事件でも、一部の連隊長や大隊長、そして中隊長以下の各郷土出身の近衛兵たちは、「玉音盤を探し出して放送を阻止しろという命令を森赳近衛第1師団長が下すはずがない」と考えており、彼らに亡き森師団長のニセ命令を直接伝えることになった師団参謀の古賀秀正少佐の様子をも、不自然であると疑っていたのでした。


岡山歩兵第10連隊の悲運 ―「吉備王国戦士」への期待―

 さて、岡山の郷土部隊に目を向けてみます。岡山の郷土部隊には、歩兵第10連隊(鉄5448)とその留守部隊・後発部隊の歩兵第110連隊(鷲3911)、歩兵第54連隊(月7385)とその留守部隊・後発部隊の歩兵第154連隊(兵10114)があります。

岡山歩兵第10連隊  本会が中心的に扱っている岡山歩兵第10連隊は、帝国陸軍中、最古参の郷土部隊の一つです。日中戦争で抗日ゲリラとの激闘を展開した後、部隊の三分の一を失った状態で一度帰還し、再度満州へ赴き、警護に当たります。

 しかし、すぐに第二次世界大戦・太平洋戦争が勃発したため、人員補充を重ねながら、フィリピンのルソン島に移動し、米軍への斬込(きりこみ。肉弾攻撃)で多くが爆死・玉砕しました。その後も、終戦後の1946年まで、フィリピン人抗日ゲリラやフクバラハップ(抗日ゲリラの一つ)、米兵ゲリラ(ユサッフェ・ゲリラ)と死闘を繰り広げ、敗北しました。

 幹部将校を含む各歩兵は、岡山・倉敷・総社・笠岡・高梁・新見・真庭・津山・美作・和気・備前などの各地から満遍なく徴兵されているほか、姫路・神戸・広島からも少数徴兵されています。

 ところで、岡山歩兵第10連隊も、下記リンクのNHKの特集番組で近衛師団と同じく「精鋭部隊」と紹介されています。ただし、精鋭部隊である所以は、単に文武両道・品行方正な兵士が多かったという意味だけではなく(NHKはそうとのみ表層的に理解している傾向にあるようですが)、別の意味もあったということは、我々岡山県出身者としてはすぐに感じ取ることができます。帝国・天皇をより直接的に守護する近衛師団・近衛連隊に準じる扱いを受け、それに恥じないだけの「吉備王国戦士」としての戦果を挙げるよう実力の限界以上の期待をされ、いわば「依怙贔屓(えこひいき)」されたという側面もあったでしょう。

 元より、かの「宇垣軍縮」を断行する中、歩兵第10連隊を正式に姫路から岡山に転営させたのは、岡山県出身の陸軍大臣で、幻の首相に終わった宇垣一成でした。日本の陸軍歩兵部隊の「郷土部隊」という編成方式のもとでは、同じ日本軍・同じ師団の配下部隊であっても、それぞれに異なる性格を期待されていたことが垣間見えます。

 隣の姫路・神戸・広島の部隊(第10師団の歩兵第39連隊など)や、その昔大和朝廷に抵抗し異文化を築いた出雲地方・松江の部隊(第10師団の歩兵第63連隊)などと違って、岡山歩兵第10連隊(第10師団)には、岡山県出身の近衛兵に対するのと同様、日本神話的・素戔嗚尊(スサノオノミコト)的な英雄性を持たされていますし、当時の岡山県民自身が、それを兵士らに期待し彼らを鼓舞しなければ、とても戦争に耐えきることができなかったという側面もあるでしょう。

 開戦当初の大日本帝国・日本軍、そして近衛兵や岡山の部隊のイメージが日本史上のどの時代にまで遡って作為的に形成されていたかが、如実に分かります。

 しかし、いくら神話的・英雄的な期待をかけられたからと言って、持っている戦力以上の戦力を人間が出せるはずがありません。現実の戦況は、前述のような理想的な岡山の青年像とは無関係のことです。

 しまいには、歩兵第10連隊の岡山の兵士たちは見放され、ルソンに取り残されます。ルソンでの「吉備戦士」の戦闘の結末は、下記の戦史資料の通り、太平洋戦線部隊中、最悪のものとなりました。台湾やレイテ決戦などに関する大本営の虚構発表がもたらした結末です。

 こうして、岡山の郷土戦士たちは壊滅状態で内外から帰郷しますが、それを迎え入れた岡山県民は、それぞれの郷土戦士たちを迎え入れた広島県民や兵庫県民に比べて、意外にも落ち着き払っており、熱狂的態度をとらなかったようです。自分たちが郷土戦士に込めた英雄性が、それだけ過剰なものだったということなのかもしれません。