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帰還兵の生存状況と証言の共通点 : 大日本帝国陸軍岡山歩兵第10連隊・岡山近衛兵将校子孫会(岡将会) : 岩崎純一のウェブサイト
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岡山歩兵第10連隊帰還兵の生存状況と証言の共通点について(終戦後に渡る激闘と現在までの悲痛)

 本会の調査したところによると、連隊の中国戦線における最多時の兵員は約3700名、フィリピン戦線における最多時の兵員は約3200名で、うちフィリピン戦線で約3000名が戦死(被弾死・爆死・自決・餓死・戦病死・刑死)、150名~272名が内地帰還しており、2005年時点で確認できたご健在の帰還兵は約30名、2015年時点で確認できた方は5名のみです。
 下方のリンクから無料でご覧いただけるNHKの同連隊についての特集番組(2007年)で証言されている帰還兵も、ほとんどがお亡くなりになっています。

 本会会員の全員が、帰還兵から生まれているか、帰還兵が帰還後にもうけた子から生まれていますので、その奇跡には驚愕を覚えます。ただし、帰還したことすなわち生きて帰ったことは、当時は恥であり、「非国民」の悪評との戦いの開始であり、かつ戦地にて自分の両脇で戦死した戦友を弔う人生の開始をも意味しました。

 さて、岡山歩兵第10連隊の帰還兵から我々子孫が共通して聞いていることは、以下のことです。

(1)フィリピン戦線中、最古の連隊で、かつ最後に満州からルソン戦線に投入され、最後まで残って戦闘し、生存者の数は最少であった。

(2)サイパンの戦い、マリアナ沖海戦、台湾沖航空戦、レイテ島の戦い、レイテ沖海戦の全てにおいて日本軍が大勝利し米軍が壊滅状態であると、大本営かつ第14方面軍から発表があったため、それに基づいてフィリピン上陸・決戦の方針を立てたが、その発表は捏造・虚構で、連隊が上陸した時点で、戦艦武蔵は海の底であり、太平洋戦線・フィリピン全土で敗北必至であった。
 当時は、フィリピンには「とどめを刺しに行く」のであって、背水の陣で「米軍の本土上陸を遅らせるためだけに戦い、敵陣に突進・爆死する斬込(きりこみ。肉弾攻撃)要員になる」とは知るよしもなかった。しかも、沖縄戦・本土決戦開始後や原爆投下後も、大本営や第14方面軍から情報を隠された。
 今度は逆に、我々歩兵のほうが、日本軍から来た情報も米軍から来た情報も全て疑う態度になった。一部の歩兵には、岡山県人としての独立独歩の戦闘心が芽生えた。日本軍が日本軍を殺したようなものだと現在も考えている。

(3)1945年8月半ばから突然、米正規軍の爆撃が停止し、降伏奨励のビラを米軍にばら撒かれ、代わりに現地のフィリピン人抗日戦線やフクバラハップ、米兵の残党が南部方面から現れて攻撃してくるようになり、おかしいとは思ったが、戦闘は軍人の使命であり、終戦の可能性を考えなかった。

(4)第8師団(とりわけ秋田の歩兵第17連隊)や、同郷岡山の歩兵第110連隊には申し訳ない。
 秋田歩兵第17連隊は、連隊長の藤重正従大佐の命令で、フィリピン人抗日ゲリラ虐殺部隊と、それを拡充させたフィリピン住民虐殺部隊を有しており、歩兵たちが虐殺を担わされたため、最後に投入された我々歩兵第10連隊は、戦死・餓死・戦病死者は多く出したが、「人を殺す」ことに手を染める必要がなかった。
 岡山歩兵第110連隊は、虐殺部隊は持たず、中国が現在主張する「三光作戦」という名称も使ったことはないが、「治安作戦」や「粛正(粛清)」という語は、我々と共に岡山にいた頃から使っており、その後、計画通りに中国人殺害を行った。我々歩兵第10連隊が中国でも「人を殺す」ことに手を染めずに済んだのは、同郷の同志たちの行動を尻目に我々だけがルソンに行くことになったからであって、我々の部隊が特別に神聖だからではない。

(5)最後の最後で(終戦後に)連隊から多大な戦死者・自決者・餓死者が出ており、フィリピン人や米兵の残党との殺し合いとなった。

◆(1)~(5)の意味するところについて

 ルソン島決戦の敗北は、直接的に太平洋戦争そのものの敗北につながっていますが、終戦後のルソン最後の戦闘は岡山・姫路・松江・鳥取など、山陽・山陰の郷土歩兵が展開しました。

 姫路の歩兵第39連隊や松江の歩兵第63連隊は、やや早く捕虜収容所に収容され、内地(日本本土)に引き揚げていますので、最後の最後は、岡山の残留兵が抗日ゲリラやフクバラハップ、米軍の残留兵と戦う構図になりました。

 ところで、満州からのルソンへの移動では船団の最後につけ、上陸・戦闘開始も遅れましたので、何もかもが遅かった連隊だということになります。

 一方で、連隊そのものは、フィリピン戦線中、最古の歩兵部隊ということになります。西南の役でも戦い、父子二代の同連隊歩兵もいました。岡山県出身の宇垣一成によるかの「宇垣軍縮」により、正式に姫路から岡山に転営しました。生存者も、各連隊中で最少であるため、おおむね(1)は真実であります。

 レイテ決戦などでの日本軍大勝利の虚構発表は、今となっては有名な話ではありますが、各連隊は本気で大勝利と信じました。(2)から(5)は、全てその虚構発表がもたらした負の遺産です。天皇・大本営に忠誠を誓ってきたこの連隊が、次第に天皇・大本営にも米軍にも抵抗し、単独でのゲリラ戦に突入していくのは、必然のことでした。

 フィリピン人抗日ゲリラやフクバラハップ、米兵ゲリラは、日本軍が優勢だった1942・43年まではマニラやルソン南部で日本軍に抵抗していました。その勢力が最後の最後で北部の歩兵第10連隊に到達したのは、終戦によって、情報受容が早かったルソン南部の都市部の日本軍が降伏・停戦したことで、ゲリラの北上を許したからです。また、すでに日本軍は壊滅状態で、ゲリラ北上は時間の問題でもありました。

 マニラ市街戦・南部決戦の頃に連隊長の藤重正従大佐のもとでフィリピン人虐殺部隊を有した秋田歩兵第17連隊も内地へ帰還し、ゲリラ化したフィリピン人遺族の報復攻撃は岡山の歩兵に向けられました。にもかかわらず、岡山の帰還兵が秋田の歩兵に申し訳ないと思ったのは、秋田の歩兵がルソン南部でフィリピン人虐殺を担ったがゆえに、岡山の歩兵が自らほとんど手を下さずに済んだことに思いを巡らせたためです。

 また、歩兵第10連隊が、中国で部隊の三分の一を失う激闘を展開し、今度はすぐにフィリピンに向かう事態になったのに対し、同郷の岡山歩兵第110連隊が中国に上陸した頃には、すでに徐州会戦の終盤でした。にもかかわらず、第10連隊の帰還兵が第110連隊に申し訳ないと思ったのは、その後、自分たち第10連隊がフィリピン戦線でもはや上記のような壊滅のみを経験したのに対して、第110連隊はそのまま中国で抗日ゲリラとの戦いに邁進し、帰還後も良心の呵責に苦しむこととなったことに思いを巡らせたためです。

 確かに、岡山県発行の『岡山県史』や『岡山県郷土部隊史』、岡山・十五年戦争資料センター発行の『「岡山郷土部隊」は何をしたか』や『岡山の記憶』に描かれるのは、歩兵第110連隊の中国における中国人粛正の「蛮行」ばかりで、著述・編集を担当した岡山県民自身(特に、兵士遺族、小中高等学校の教師、県内大学の教員)もそれを徹底的に強調し、(私の視点では、かなり過剰にすぎる)中国に対する懺悔の念を示す傾向にあるほどです。

 一方で、歩兵第10連隊については、餓死や戦病死で壊滅したことが記されるばかりで、フィリピン人殺害の記録は見当たりません。ただし、前述のような事情を考えれば、どの部隊がどの土地でどの任務を誰の命令で担うことになるかが単に運命の違いにすぎないことだけは、よく分かります。

 中国における岡山歩兵第110連隊の立場は、ちょうどルソンにおける秋田歩兵第17連隊の立場に類似しています。その代わりに、歩兵第10連隊は、どの部隊にも増して、肉弾攻撃による爆死、自決、餓死、戦病死を経験することとなりました。

 こうして、歩兵第10連隊の帰還兵たちには独特の良心の呵責が形成されることになりました。