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文法解説(使用頻度の高い精神疾患者向けの簡単なステップ型解説) : 岩崎式日本語 : 岩崎純一のウェブサイト
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岩崎式日本語文法の解説(使用頻度の高い精神疾患者向けの簡単なステップ型解説)

お読みいただく前の注意事項

■日記などにおける岩崎式日本語の使用経験がある方々と考案者の私が、協力してできるだけ簡単にこの言語を解説するページです。STEP1から順にご覧下さい。

 意図は、考案者の私一人だけによるこの言語の解説は、言語学的・精神病理学的・哲学的な予備知識が必要なので、それを使用者の立場からわかりやすく説明することです。

 書いている人は、以下の通りです。
● よっすう・遥子・Yuka :メインの文章の執筆
● 考案者の私岩崎 :全体の修正と一部の文章の執筆

 ただし、元々この言語は、DV・虐待被害者を中心とする符牒型・秘密使用型の言語であり、加害者に届く情報(被害者の居場所や現在の症状などの情報)を撹乱させる言語、いわば加害者にとって「わけの分からない」言語である必要があるため、解説は公開できる限界の範囲内にとどめています。

◆ 岩崎式日本語は、一個人によって考え出された特殊な日本語です。
◆ 岩崎式日本語は、薬ではありません。医学的に体に効くたぐいのものではありません。
◆ 岩崎式日本語は、医学的な診断を行うテストや調査などではありません。すでに診断を受けた方々が日記などを書くのに使用し、安心感なり充実感を得ているということです。
◆ 考案者の私が何かを診断するわけでもありません。

STEP1 一般の日本語の「わたし」との距離感の表現

「自分」の基本は「ゐう」・「わ」

 ここから、岩崎式日本語をステップ順に説明していきます。

 さっそくSTEP1から見ていきましょう。
 まず、普通の日本語の文と岩崎式日本語の例文をくらべてみましょう。

■普(1-1):わたしは星空を眺めています。
(わたしは星空を眺めています。)

■岩(1-2):ゐうのは(わのうは)星空を眺めています。
(わたしは星空を眺めていますが、自我が薄れていて、まるで星空に吸い込まれそうです。)

■岩(1-3):ゐうはては(わしきぐは)星空を眺めています。
(わたしは星空を眺めていますが、もうほとんど自我が薄れていて、星空のほうが私を眺めている気さえします。)

 いかがですか?
 普通の日本語との違いは、「わたし」の部分の変化で生じていることがわかると思います。

「岩(1-2)」は少し重めの離人症の女性、「岩(1-3)」はとても重い離人症の女性が書いた文です。離人症というのは、よく「自分が自分でない気がする」という言われ方をする症状で、精神病理学者によっては解離性障害の一つだったり、解離性障害とは別だったりします。

 いずれにしても、「離人」の度合いによって、使い分けたのです。つまり、「普(1-1)」が一番自我がはっきりしていて、次に「岩(1-2)」、「岩(1-3)」の順に自我が薄れていくのがおわかりと思います。

 普通の日本語では一人称は「わたし(わたくし・僕・俺)」などですが、岩崎式日本語では、(「わたし」も使いますが、)基本は「ゐう」や「わ」となっています。

「ゐう」は昔の言い方で、これは「第三期岩崎式日本語」と言ったのですが、今も使っていいですし、今は「ゐう~」のほうは女性どうしの話し言葉・メール言葉、「わ~」のほうは形式的な書き言葉でよく使われます。これが「第四期」で、現在はこれです。ただし、「ゐう」は「iu」ではなく、きちんと「wiu」とワ行で発音します。普通の日本語との区別化をあえて図るためです。

 漢字で書くときは、だいたいは「わ~」のほうで読みます。「ゐう~」のほうは、いわば訓読みに当たります。

 ところで今、一人称と書きましたが、解離性障害や統合失調症では「自分」が自分か他人かがわからなかったり、「自分」が複数いたり(感じられたり)、「自分」が一定期間消えたり(消えたように感じたり)する症状が出ます。

 そのため、「ゐう」・「わ」は一人称ではなく、「我燈(がとう)」と呼ばれています。「我をともす」というような意味です。

 つまり、「犬」という名詞が犬という動物に「付いている」としたら、「ゐう」・「わ」は、人の心や自我の状態に「付いている」のです。

 だから、「ゐう」・「わ」は、解離性障害の人にとっては、自分の自我が乗った肉体を表しているとは限らないのです。星空を見ている「感じがする場所」、「自分という火がともっている所」が「ゐう」・「わ」で、その「ゐう」・「わ」が一つの肉体に宿っている人が、いわゆる「健常者」ということになります。


「ゐう」・「わ」につくもの

「ゐう」・「わ」にはいろんな言葉が付きます。でも、付き方に規則や理由があります。

(本当は、以下の「主」とか「活」というのには、言語学上の意味があるのですが、ひとまず丸暗記でいいです。)

 まず、
わたし
 これが、いわゆる健常者の人たちが普段学校に行ったり職場に行ったり、家族や友達とおしゃべりしているときの「わたし」です。

 でも、以下のような症状のある人は、その左にある「ゐう」・「わ」の変化形を、普通の日本語の文の「わたし」の位置に使うことができます。変動はありますが、私たちの経験からの例を挙げておきます。

 実は、下に行けば行くほど、普通の日本語の「わたし」からの心理的距離が遠いのです。上に行けば行くほど、心理的距離が近く、「心の病気」、つまり精神障害と呼ばれているものの程度が軽い人が多いのです。

「距離感って何??」と思うかもしれませんが、とりあえず、健康な人の言う「わたし」からの心理的距離感と思っておいてください。

わたし(が)(私・我主)・・・普通の日本語の一人称(本当は岩崎式では5段階ありますが、私たちはあまり使い分けません。)
ゐうが(わかつしゅ・我活主)・・・社交不安障害・SAD・対人恐怖症・気分障害・あがり症
ゐうか(わかつ・我活)・・・少し重めの社交不安障害・SAD・対人恐怖症・気分障害・あがり症、アスペルガー症候群
ゐうーか(わいかつ・我意活)・・・それなりに重めの社交不安障害・SAD・対人恐怖症・気分障害・あがり症、離人症、パニック障害、少し重めのアスペルガー症候群
ゐうむか(わい・我意)・・・けっこう重めの社交不安障害・SAD・対人恐怖症・気分障害・あがり症、離人症、パニック障害、少し重めのアスペルガー症候群
ゐうのか(わのうい・我能意)・・・重めの社交不安障害・SAD・対人恐怖症・気分障害・あがり症、少し重めの離人症、パニック障害、PTSD、各種の発達障害
ゐうの(わのう・我能)・・・重度の社交不安障害・SAD・対人恐怖症・気分障害・あがり症、重めの離人症、軽めの解離性障害、パニック障害、PTSD、各種の発達障害
ゐうーの(わきのう・我希能)・・・各種の重い気分障害、重めの離人症・解離性障害、各種の発達障害
ゐうむの(わき・我希)・・・重めの離人症、各種の解離性障害、統合失調症、各種の発達障害
ゐうての(わきゅうき・我及希)・・・重度の離人症、解離性同一性障害、解離性健忘、解離性遁走、統合失調症、各種の重めの発達障害
ゐうて(わきゅう・我及)・・・重度の離人症、解離性同一性障害、解離性健忘、解離性遁走、統合失調症、各種の重めの発達障害
ゐうーて(わぐきゅう・我具及)・・・重度の離人症、解離性同一性障害、解離性健忘、解離性遁走、統合失調症、各種の重めの発達障害
ゐうむて(わぐ・我具)・・・重度の離人症、解離性同一性障害、解離性健忘、解離性遁走、統合失調症、各種の重度の発達障害
ゐうはて(わしきぐ・我識具)・・・最重度の離人症、解離性同一性障害、解離性健忘、解離性遁走、統合失調症、各種の重度の発達障害
ゐうは(わしき・我識)・・・最重度の解離性同一性障害、解離性健忘、解離性遁走、統合失調症、せん妄、パラノイア、各種の重度の発達障害
ゐうーは(わくうしき・我空識)・・・最重度の解離性同一性障害、解離性健忘、解離性遁走、統合失調症、せん妄、パラノイア、重度の自閉症
ゐうむは(わしょ・我初)・・・解離性昏迷、せん妄、パラノイア、最重度の自閉症(昏迷状態や言語障害の状態なので、実際は「自分」にはほとんど使いません。)
ゐうまは(わぎ・我擬)・・・解離性昏迷、最重度の自閉症(昏迷状態や言語障害の状態なので、実際は「自分」にはほとんど使いません。)
ゐうま(わぜん・我前)・・・解離性昏迷、最重度の自閉症(昏迷状態や言語障害の状態なので、実際は「自分」にはほとんど使いません。)

 少しはおわかりでしょうか?

 一つおきに「主」や「活」や「意」が次々と変化していることがわかると思います。

 それぞれの自我の様子のことを、「我活(ゐうか・わかつ)」のときは「活我(カツガ)」のように、「~我」と言います。「我活主(ゐうが・わかつしゅ)」のときは、「主」と「活」の「あいだ」にあるので、「活主間我(カッシュカンガ)」と言います。以下同じです。「~我」は、最も格式ばったいかめしい文を書くときには、実際に文に用いることもあります。

 岩(1-2)は「能我文」、岩(1-3)は「識具間我文」ということになります。

 本当は以下の表に詳しく載っていますが、今はこの表を見ないほうがわかりやすいので、ご興味のある方以外はあと回しでかまいません。
『「第四期岩崎式日本語」大全』別添資料(5) 我燈一覧表(PDF,図表)

 では、次のステップに進みましょう。

STEP2 満足感、願望、実現度の表現

満足感の表現

 もう一度、STEP1の普通の文と、「岩(1-2)」の能我文を載せます。そして、「岩(2-1)」は新しい文です。

■普(1-1):わたしは星空を眺めています。
(わたしは星空を眺めています。)

■岩(1-2):ゐうのは(わのうは)星空を眺めています。
(わたしは星空を眺めていますが、自我が薄れていて、まるで星空に吸い込まれそうです。)

■岩(2-1):ゐぬは(わのうるは)星空を眺めています。
(わたしは星空を眺めていますが、自我が薄れていて、まるで星空に吸い込まれそうです。ただし、そんな自分に満足していて、気が楽です。)

「ゐうの」が「ゐぬ」になっています。これは能我「ゐうの」の変化形の一つで、能我心描言(のうがしんびょうげん)と言います。「言(げん)」と呼ばれるものの一つです。「岩(2-1)」の意味は、「岩(1-2)」の強調だと思ってください。

 これは、「自我がかなり薄れていて、吸い込まれそうな自分」を「どう感じるか」自問自答してみて、「満足です」と言っているのです。このようなときは、「ゐうの」にも、ほかの我燈にも、「ウ」の音を付けるのです。だから、「ゐうの・う」→「ゐのう」→「ゐぬ」となっているのです。
(フランス語のエリジオンに似ています。母音が連続すると発音が難しいから、続けて読むのです。)

 第四期・文語のほうも、「ウ」が付きますが、「わのう」のように母音で終わる我燈には、「ル」が付きます。「わのう・う」→「わのう・る」です。

 もし、「自我が薄い自分の状況」全体に満足しているわけではなくて、「薄い自我で星空を見ている今」だけ満足しているとしたら、どう表現するのでしょう。つまり、星空を見るなど文字どおり「我を忘れて」いるとき以外の日常生活(たとえば、難しい本を読んでいるようなとき)は、自我がはっきりしていないと困ることが出てくる、というような場合です。

■岩(2-2):ゐうのは(わのうは)星空を眺めているます。
(わたしは星空を眺めていますが、自我が薄れていて、まるで星空に吸い込まれそうです。ただし、その自我の薄れは、少なくとも星空を見ている今の時間にはとても似合っていて、気が楽です。)

 このように、「眺めてい」に「ウ」を付けます。「い」は母音だから「ル」を付けます。普通は最後の文字と同じ子音の「ウ」の段を付けます。

「眺め」に心描言を付けて「眺めむています」にすると、「持続的に星空を眺めて“いる”のも嫌いではないのだけど、それ以上に眺める動作自体が好き」という意味になり、「眺め」と「いる」の両方に付けて「眺めむているます」にすると、「瞬間的・持続的に関係なく好き」という意味になります。

 星空だとあまり差が出ませんが、たとえば解離性障害者で、電車に乗り続けるのは人目があって苦痛なのに、電車に少し乗るのは好き、というような場合に、「乗っています」→「乗りています」(「乗っ」を一度古文に戻す)→「乗りるています」などと使えます。

 つまり、少し古文の動詞の連用形「乗りて」の知識がいるわけですが、そんなに難しくないと思います。動詞については、またあとのステップで見ていきます。

 いろいろな心描言が、岩崎さんのページの下の資料に載っています。STEP1のそれぞれの「我」や動詞に六つの変化があって、一番上が元の形、次に「ウ」を付けた心描言が載っています。

『「第四期岩崎式日本語」大全』別添資料(5) 我燈一覧表(PDF,図表)

 第三期では、「ハ行」が「ファ行」で発音されたり、「チ」や「ツ」が「ティ」や「トゥ」で発音されていました。ですので、「ゐうはて」が「ゐうふぁて」になっていたりしますが、同じ我燈です。

 では、STEP1の「岩(1-3)」のほうに心描言を付けてみましょう。

■岩(2-3):ゐうはては(わしきぐは)星空を眺めています。
(わたしは星空を眺めていますが、もうほとんど自我が薄れていて、星空のほうが私を眺めている気さえします。)

■岩(2-4):ゐはつは(わしきぐるは)星空を眺めています。
(わたしは星空を眺めていますが、もうほとんど自我が薄れていて、星空のほうが私を眺めている気さえします。ただし、自我の薄れから逃げたいという感じはなく、とても満足しています。)


願望、実現度の表現

 では、満足していない場合はどう表すのでしょうか?

 答えは、同じ子音の行の「ア」「イ」「エ」「オ」を付けるのです。ここで、「願望」と「実現度」という概念が大切になります。ここでいう「願望」は、「苦しさをともなう願望」です。好きで願っている場合は、先ほどの「ウ」でよいことになるからです。

 願望(抽化言と抽出言)と実現度(未然形と已然形)は、お互いに混ざり合っていて、心描言のようには簡単にいきません。むしろ、願望と実現度に分けずに、「ア」~「オ」それぞれの意味と呼び方を一緒に覚えた方がよいかもしれません。

 実は、「イ」と「オ」だけは、第三期と第四期とで逆になっています。今は、第四期のほうに合わせて使います。(言語学的には、広母音と狭母音の統一という意味がある。)

■岩(2-1):ゐぬは(わのうるは)星空を眺めています。
(わたしは星空を眺めていますが、自我が薄れていて、まるで星空に吸い込まれそうです。ただし、そんな自分に満足していて、気が楽です。)・・・心描言

■岩(2-5):ゐのは(わのうろは)星空を眺めています。
(わたしは星空を眺めていますが、自我が薄れていて、まるで星空に吸い込まれそうです。ただし、そんな自分で居続けるためにしている努力は普通程度です。)・・・抽化言未然形(ちゅうかげんみぜんけい)

■岩(2-6):ゐには(わのうりは)星空を眺めています。
(わたしは星空を眺めていますが、自我が薄れていて、まるで星空に吸い込まれそうです。ただし、そんな自分で居続けるためにしてきた努力は普通程度で、すでに努力が実っています。)・・・抽化言已然形(ちゅうかげんいぜんけい)

■岩(2-7):ゐなは(わのうらは)星空を眺めています。
(わたしは星空を眺めていますが、自我が薄れていて、まるで星空に吸い込まれそうです。ただし、そんな自分で居続けるためには、かなりの努力が必要で、努力をやめると、今にも自我が壊れそうです。)・・・抽出言未然形(ちゅうしゅつげんみぜんけい)

■岩(2-8):ゐねは(わのうれは)星空を眺めています。
(わたしは星空を眺めていますが、自我が薄れていて、まるで星空に吸い込まれそうです。ただし、そんな自分で居続けるためには、かなりの努力が必要でしたが、すでに努力が実っています。)・・・抽出言已然形(ちゅうしゅつげんいぜんけい)

 このあたりから、解離性障害者にとっては心が落ちつく言語という感じになっていくのですが、普通の人にはこのあたりから全然わからなくなっていくと言われるところです。

 どうしてこんな表現が私たちに必要かというと、星空など特定のものを目で見ているときだけ解離が起きるような場合があるからです。それは、昔星空を眺めているときにトラウマ的なことに遭ってしまったり、親に叱られたり虐待を受けたりして玄関から放り出されたときに、きれいな星空だけが自分をわかってくれる存在だと思ったりしたなど、個人的な体験によります。

 たとえば、解離性障害になって外出が難しい状況にある私たちが、「ゐのう」の自我の状態で、ふと外に出たい気持ちが生まれて、やっとの思いで外に出て、一人で電車に乗れたとします。そうなると、願望もかなりあって、実現もしたことになります。だから、

■岩(2-9):ゐねは(わのうれは)電車に乗れました。

 でも、もし以下のような文になっていたら、電車に乗ること以外の外出、たとえば人と遠くに旅行に行ったりなどは少なくとも難しいのだということがわかります。「電車」と「乗れ」にあえて抽出言已然形が付いているからです。

■岩(2-10):ゐねは(わのうれは)電車せに乗れれました。

ちなみに、「シャ」や「チョ」などの「拗音」のあとでは、最初の大きいほうの文字と同じ子音のアイウエオと、ラリルレロの両方が使えます。

STEP3 苦しみ・悲しみの表現

普通の日本語の「わたし」からより遠い我燈を用いる

 私たち解離性障害をもつ人や、統合失調症をもつ人にとっては、なによりその独特の苦しみや悲しみがうまく表せないといけません。その方法をいくつか紹介します。

 STEP1で紹介した我燈のうち、なるべく下の方にある我燈を使うと、より重い自我の障害を言うことができます。

 ただし、実はどの我燈までさかのぼっていいかは、言語学的な質問と回答から来ているのです。それは大全の本編に詳しく載っているのですが、ここでは「あまりむやみに重い自我の障害を我燈で表してはいけない」と覚えてください。

 基本的には、普通の日本語の「わたし」の意味が日常生活で支障なくわかったり、普通の日本語をしゃべるときにろれつが回らなくなったりしない人は、たぶんさかのぼっても「ゐうむか」あたりかなと思います。


心描言、抽化言、抽出言を使い分ける

 STEP2で紹介した五つの変化形(五言)をうまく用いると、いろいろな行為について具体的に何が苦しいか、どう苦しいかを言うことができます。

■岩(3-1):わたしは、電車に乗って、仕事に行った。

■岩(3-2):ゐむぬは、電車に乗りるて、仕事に行きかた。
(自我がかなり朦朧とした私は、乗るのは楽しい電車に乗って、仕事に苦しくも行った。)
=仕事がつらいとは限らず、行くという動作そのものが苦しい。道中に解離性障害のきっかけとなったトラウマの場所があるなど。

■岩(3-3):ゐむぬは、電車に乗りるて、仕事たに行った。
(自我がかなり朦朧とした私は、乗るのは楽しい電車に乗って、つらい仕事に行った。)
=電車に乗ることや行くまでの道中では発作が起きないのに、職場が苦痛で発作が出る場合など。

■岩(3-4):ゐむぬは、電車しゃ(さ・ら)に乗って、仕事に行った。
(自我がかなり朦朧とした私は、乗るのが苦手な電車に乗って、仕事に行った。)
=仕事に行くのはつらくないのに、電車が苦手だったりトラウマだったりして、道中に苦労する場合など。

STEP4 他者の表現

自分以外の人の表現

 岩崎式日本語では、自分以外の人はどう表現するのでしょうか。見ていきます。

■普(4-1):わたしはあなたにプレゼントをあげる。

■岩(4-2):ゐむぬはあなたにプレゼントをあげる。
(自我がかなり朦朧とした私は、あなたにプレゼントをあげる。とりあえず、私はそのことに満足している。)・・・希我心描言文

 ここまではよいですね。

■岩(4-3):ゐむぬはあなたむぬにプレゼントをあげる。
(自我がかなり朦朧とした私は、同じくらい自我が朦朧としたあなたにプレゼントをあげる。お互いにその状態に満足している。)

 これも同じ希我心描文ですが、形は少し違います。(「~文」という言い方は、常に自分の我燈の立場からします。)

 このような言い方は、「あなた」に当たる人の症状が同じくらいの重さ(この場合、希我)だ知っている場合や、同じくらいだと予想する場合に使います。知っているのか、予想しているだけなのかは、また別の文で言えばよいわけです。

■岩(4-4):ゐむぬは友人Aてぬにプレゼントをあげる。
(自我がかなり朦朧とした私は、私よりも自我が朦朧とした友人Aにプレゼントをあげる。お互いにその状態に満足している。)

 この文では、「友人A」に付いている「てぬ」(及希間我)が「ゐ(う)」に付いている「むぬ」(希我)よりも自我の障害が大きいので、こう訳すのです。友人Aが「てぬ」(及希間我心描言)だということは、友人Aにはだれか家族など安心できる人がそばにいて、朦朧とした自我の状態でも安心して暮らせていることが考えられます。

 こうして見てくると、自分以外の人の自我については、見聞きして知っているか、確からしい予想があってはじめて、複雑な我燈が作れることがわかります。

 だから、普通はこのような、「あなたむぬに」や「友人Aてぬに」といった我燈はあまり使われず、他人を表す単語はだいたい普通の日本語と同じなのです。(「あなたに」や「友人Aに」など。)

 ただし、ここで一つ付け加えると、解離性障害者や、あとで述べる発達障害者には、動植物と気の合う人が多いのです。動植物というと、人間のような自我はない存在だと言えます。だから、岩崎式日本語では、むしろ動植物のほうにいろいろな我燈が付くことが多いのです。

■岩(4-5):ゐむぬはウサギむふに餌をあげる。
(自我がかなり朦朧とした私は、それ以上に自我が朦朧としているけれど動物にしては少し自分自身をわかっているように私には思えるウサギに、餌をあげる。お互いにその状態に満足していると思う。)

■岩(4-6):ゐぎはアサガオーふに話しかけくた。
(それほど無理もなくある程度の自我を保てている私は、ほとんど無我だけれど少しはうれしそうなアサガオに、同じくうれしく話しかけた。)

 さて、第三期では、「あなた」や「彼」を表すのに「なとぅら」や「かうら」などのややこしい単語が使われていましたが、今は「あなた」や「彼」など普通の日本語と同じです。でも、第三期の語を使ったらいけないわけではありません。

STEP5 動詞・形容詞などの表現

動詞・形容詞・形容動詞の表現

 STEP2で少し説明してしまいましたが、動詞・形容詞、それから形容動詞などの述語も、まずは五通りに変化します。

■岩(4-2):ゐむぬはあなたにプレゼントをあげる。
(私は自我が朦朧としているが、あなたにプレゼントをあげる行為は普通にできている。)

■岩(5-1):ゐむぬはあなたにプレゼントをあげるる。
(私は自我が朦朧としている中、あなたにプレゼントをあげる行為に満足している。)

■岩(5-2):ゐむぬはあなたにプレゼントをあげるろ。
(私は自我が朦朧としていて、あなたにプレゼントをあげる行為も、あげようと思ったからできただけで、まだこれでも頑張っている感じがある。)

■岩(5-3):ゐむぬはあなたにプレゼントをあげるり。
(私は自我が朦朧としている中、あなたにプレゼントをあげる行為も、あげようと思ったからできたし、もうそういうことは平気だ。)

■岩(5-4):ゐむぬはあなたにプレゼントをあげるら。
(私は自我が朦朧としていて、あなたにプレゼントをあげる行為も、あげようと思ったからできただけで、実はとても頑張らないとできない。)

■岩(5-5):ゐむぬはあなたにプレゼントをあげるれ。
(私は自我が朦朧としている中、あなたにプレゼントをあげる行為も、あげようと思ったからできたし、ものすごく頑張った末そういうことはできるようになった。)

※ 「あなた」のことがきらいなのではなくて、「人から何をどうもらったら何をどう返せばいいか」などの社会のルールや人間関係が苦手だということを「あなた」に言っている文です。

■岩(5-6):ゐこは星空が恋しい。
(私は、それほど無理な頑張りもなくそれなりの明確な自我を保っていられる中、星空が恋しい。)

■岩(5-7):ゐこは星空が恋しいる。
(私は、それほど無理な頑張りもなくそれなりの明確な自我を保っていられる中、星空を恋しがる自分に満足だ。)

■岩(5-8):ゐこは星空が恋しいろ。
(私は、それほど無理な頑張りもなくそれなりの明確な自我を保っていられる中、星空を恋しがる自分の姿が少し苦しい。)

■岩(5-9):ゐこは星空が恋しいり。
(私は、それほど無理な頑張りもなくそれなりの明確な自我を保っていられる中、星空を恋しがる自分には少し頑張れば耐えられる。)

■岩(5-10):ゐこは星空が恋しいら。
(私は、それほど無理な頑張りもなくそれなりの明確な自我を保っていられる中、星空を恋しがる自分の姿がとても苦しい。)

■岩(5-11):ゐこは星空が恋しいれ。
(私は、それほど無理な頑張りもなくそれなりの明確な自我を保っていられる中、星空を恋しがる自分にはかなり頑張れば耐えられる。)

 次は形容動詞ですが、形容動詞の場合、たとえば以下の例だと、言は「静かだづ」とならずに「静かくだ」と、「だ」の前に入ることが多いです。形容動詞は、「静か+だ」のようにして「名詞+断定の助動詞」という説もあって、おもしろいです。でも、わざとこの説をとって「静かくだ」としているわけでもないです。

■岩(5-12):ゐーなはとても静かだ。
(かなり頑張ってやっと中程度の自我まで持ち直した私は、とても静かな性格です。)

■岩(5-13):ゐーなはとても静かくだ。
(かなり頑張ってやっと中程度の自我まで持ち直した私は、とても静かな性格で、自分に満足しています。)

■岩(5-14):ゐーなはとても静かこだ。
(かなり頑張ってやっと中程度の自我まで持ち直した私は、とても静かな性格ですが、少し苦しいです。)

■岩(5-15):ゐーなはとても静かきだ。
(かなり頑張ってやっと中程度の自我まで持ち直した私は、とても静かな性格で、そのことは少し頑張れば苦しくはありません。)

■岩(5-16):ゐーなはとても静かかだ。
(かなり頑張ってやっと中程度の自我まで持ち直した私は、とても静かな性格ですが、かなり苦しいです。)

■岩(5-17):ゐーなはとても静かけだ。
(かなり頑張ってやっと中程度の自我まで持ち直した私は、とても静かな性格で、そのことはかなり頑張れば苦しくはありません。)


助動詞の表現

 日本語でほかに活用する品詞としては、助動詞があります。これも、五つの言を付けられます。

■岩(5-18):書こう。話さない。食べた。
■岩(5-19):書こうる。話さないろ。食べたて。
(私の好きな「書く」という動作を行おう。話さないということは少しの努力の末にできることだ。食べたことはかなりの努力の末にできた。)


複合動詞などの表現

 複合動詞や複合形容詞なども、いろいろと表現できます。

■岩(5-20):話しそすぎれた。←話しすぎた。
(「話しすぎた」という行為のうち、「話し」の部分は少し努力が未だ必要で、「すぎ」の部分はかなり努力すれば実現できることだ。)

 このような使い方は、たとえば初対面では緊張するのに、話し始めると意外に話が長続きできたようなときに使えます。

■岩(5-21):痛つかゆいら。←痛かゆい。
(痛覚というものがよくわからず平然としているのに、かゆみだけが我慢できなくてかゆい。)

 このような使い方は、たとえば解離性感覚脱失が起きて痛みだけがなくなったようなときに使えます。


五言を重ねる表現

 五つの言を重ねることで、たたみかけるような心境が表現できます。日本語のリズムらしく、随時右の( )のように読むこともあります。「イチ、ニー、サン」と数えるときも、「ニー」と伸ばすのと同じようなことです。

■岩(5-22):書こうるれ。(書こうるーれ。)
(「書こう」という思いは、私が好きだが、その「好きな」感じの中でも、特にかなり頑張ったら可能なことである。)

■岩(5-23):話したてとち。(話したてーとち。)
(「話した」という事実は、私にとってはかなりの努力の末にできる、ただしその範囲内にしてはまだできない感じのする、さらにその範囲内で言えば少しの努力でできる行為だ。)

■岩(5-24):書こくけう。(書こくーけう。)
(私が好きだが、その「好きな」感じの中でも、特にかなり頑張ったら可能なことである、「書く」という動作を、しよう。)

■岩(5-25):話しせそした。(話しせそーした。)
(私にとってはかなりの努力の末にできる、ただしその範囲内にしてはまだできない感じのする、さらにその範囲内で言えば少しの努力でできる、「話す」という行為を、した。)

STEP6 名詞の表現

「ものごと」に心を見る場合

 このあたりからは、いよいよ岩崎式日本語とそれを使っている私たちの独特な世界かもしれません。私たち解離性障害や統合失調症の人たちは、「ものごと」に心を見たり、生きていると感じたり妄想したりします。診断では、病的なものとされています。

 岩崎式日本語でこれを表現してみます。STEP1の文をもう一度持ってきます。

■普(1-1):わたしは星空を眺めています。
(わたしは星空を眺めています。)

■岩(1-2):ゐうのは(わのうは)星空を眺めています。
(わたしは星空を眺めていますが、自我が薄れていて、まるで星空に吸い込まれそうです。)

■岩(6-1):ゐうのは(わのうは)星空むぬを眺めています。
(わたしは星空を眺めていますが、自我が薄れていて、まるで星空に吸い込まれそうです。でも、その星空にもちょっと自我はあるような気がして、星空はこの状況に満足しているようです。)

 さて、岩(6-1)では自分は能我、星空は希我心描言になっています。ということは、この話者は離人症か何かで、「生きている」自分の自我にわりと近い「意識」を星空が持っていて、しかもどちらかというと私よりも星空のほうが喜んで満足している、と感じているのです。

 先ほどのSTEP4では、「他者」のうち他人や動植物を表す名詞について学びました。今のステップでは、「星空」などの風景や概念も「他者」であることを示そうとしているのです。

■岩(6-2):ゐてのは、ポストむくに手紙を出せないら。
(自我がかなり薄く、なんとか頑張って生きている私は、それでも私以上に自我を持って平然としていそうで怖いポストに、手紙を出せない。いくら頑張っても。)

 この文では、話者自身の自我よりもポストの自我のほうがはっきりしている、と話者自身が感じているのです。これは、話者がかなり重い解離性障害や統合失調症で、ポストを生き物として「認めて」いることを表しています。

 たとえば、昔パートナーにあててそのポストに手紙を出したのに、そのパートナーから虐待を受けたなどの場合、それがトラウマになったりして、このような文章になります。 「もの」だけでなく、「こと」・概念にも五言は付きます。


「ものごと」が主語になる場合

■普(6-3):星空がきれいです。
(星空がきれいです。)

 さて、もしこれを言った話者が、「星空には具及間我くらいの自我がある」と感じたとします。その場合、以下でいいわけです。

■岩(6-4):星空うーてがきれいです。
(星空がきれいで、少し自我を持っているようです。)

 ところで、話者自身が具及間我である場合は、以下のようになるのです。

■我(6-5):ゐうーて(は)星空がきれいです。
(少し自我を持っている私にとって、星空がきれいです。)

 このように、岩崎式日本語は常に自己自身「ゐう(わ)」に照らして物事を見ています。話者も星空も同じ程度の自我の場合、以下でいいわけです。

■我(6-6):ゐうーて(は)星空うーてがきれいです。
(少し自我を持っている私にとって、同じくらい少し自我を持っている星空がきれいです。)

※ これは、いわゆる「象は鼻が長い」の文はどれが主語か(「象は」か「鼻が」か)という言語学的な問題にかかわります。「鼻が」のほうがより「主語的」であるというだけであって、「象は」は「場」だという考え方もできます。

 そうなると、「象は」は「ゐうーては」に似ています。私たちにとって、自分自身は「場」だからです。

STEP7 不安な「わたし」 :社交不安障害

人前・人ごみ・広場・会議・発表が不安で怖くてしかたない

 このステップから、岩崎式日本語の特徴が出やすい症状を持つ人の文を紹介します。

 まず、社交不安障害など、不安障害者の文章です。そもそもどうして人間が不安になるのかというと、落ちついて「自分」ということがわかっている人がそうなるのだと思います。つまり、自閉症の子や重い統合失調症の人のように「自分」・「自我」というものが脳でわかっていない場合は、どうしても不安になれないと思うのです。

 不安を感じている時点で、もう「心の病」からは立ち直りかけていると思うのです。

 だから、不安障害を持つ人は、岩崎式日本語で言うと、一人称の「わたし」は普通に使っていて、さかのぼっても「ゐうむか」あたりまでで、そのかわり、「満足や苦しみや悲しみ」を表す五言がとてもよく変化するのです。

 まず、「社交不安障害」は、医学的には以下をすべて満たさなければなりません。(DSM-IV診断基準)

A. 良く知らない人々の前で注視されるかもしれない社会的状況、または行為をするという状況の、1つ以上に対する顕著で持続的な恐怖。
患者は恥をかいたり、恥ずかしい思いをするような形で行動(または不安症状を示したり)することを恐れる。
B. 恐怖している社会的状況によって、ほとんど必ず不安反応が誘発され、それはパニック発作の形をとることがある。
C. 患者は恐怖が過剰であること、または不合理であることを認識している。
D. 恐怖している社会的状況または行為を患者は回避しているか、そうでなければ、強い不安または苦痛を伴っても患者は耐え忍んでいる。
E. 恐怖している社会的状況または行為の回避。不安を伴う予期、または苦痛のために、その人の正常な毎日の生活習慣、職業上(学業上)の機能、または社会活動や他者との関係に障害が起きている。
また、その恐怖症があるために著しい苦痛を感じている。
F. 18歳未満の患者の場合、持続期間は少なくとも6ヶ月である。
G. その恐怖または回避は、物質(例:乱用薬物・投薬)または一般的な身体疾患の直接的な生理的作用によくものではなく、他の精神疾患(例:広場恐怖をともなう、又は伴わないパニック障害、分離不安障害、身体醜形恐怖、広範性発達障害、又は分裂病質人格障害)ではうまく説明できない。
H. 一般的な身体疾患や他の精神疾患が存在している場合、基準Aの恐怖はそれに関連がない(例:吃音症、パーキンソン病の振顫、または神経性無食欲症または神経性大食症の異常な食行動を示すことへの恐怖でもない)

 そして、以下が社交不安障害を持つ岩崎式日本語使用者の文です。苦しさが表れていると思います。

■岩(7-1):明日、わたしは人前らで発表らしなければなりません。

■岩(7-2):ゐがは街中っかが苦手です。

■岩(7-3):わいかつと会合ららに出ます。

※ 「街中か」は、「活我抽出言未然形」と「何も付けない街中+抽出言未然形」とが同じになることになります。このようなときは、後者に「っ」を入れることが多いです。

STEP8 遠い「わたし」 :離人症性障害

自分を観察する別の自分がいる気がする

 離人症性障害は、岩崎式日本語の話者がかかえる代表的な疾患の一つです。本当は、岩崎式日本語は離人症・解離性障害者のために作られているような感じです。

 岩崎式日本語ももちろん万能ではなくて、表しやすい症状と表しにくい症状があります。岩崎式日本語が一番ピッタリくるのが、離人症・解離性障害者だと思います。

 離人症性障害のDSM-IVの診断基準は以下のようになっています。

A. 自分の精神過程または身体から遊離して、あたかも自分が外部の傍観者であるかのように感じる持続的または反復的な体験。
B. 離人体験の間、現実検討は正常に保たれている。
C. 離人症状は臨床的に著しい苦痛、または社会的、職業的、または他の重要な領域における機能の障害を引き起こしている。
D. 離人体験は、統合失調症、パニック障害、急性ストレス障害、またはその他の解離性障害のような、他の精神疾患の経過中にのみ起こるものではなく、物質(例:乱用薬物、投薬)またはその他の一般身体疾患(例:側頭葉てんかん)の直接的な生理学的作用によるものでもない。
(アメリカ精神医学会『DSM-IV 精神疾患の分類と診断の手引き』 1995年、医学書院)

 よく「離人感」や「現実感喪失」という言葉も聞きますが、それとは違って、もっと持続的で、自分を「ものごと」のように感じたり、死を考えるような人もいます。「離人感」や「現実感喪失」には男女差はないようですが、「離人症性障害」は10代~30代の女性が多いのです。

 だから、岩崎式日本語を使っている離人症者もそのあたりの女性が多いです。社交不安障害の人にくらべて、我燈がさかのぼる傾向にあります。普通の日本語の「わたし」はほとんど使われません。

 でも、症状に陥るきっかけは、不安障害ととてもよく似ています。人に笑われた体験や、仲間外れ体験、失敗体験、性的虐待を受けた体験などで発症します。

■岩(8-1):ゐたは一人でいるほうが好きくです。

■岩(8-2):わきゅうきかは人ごみまが苦手です。

■岩(8-3):ゐーなと花ーなは語り合っているるます。

■岩(8-4):先生がゐてなを叱りました。

STEP9 重なり合う「わたし」 :解離性同一性障害

自分の中に何人も別人がいる

 STEP4で他者を表す方法を学びました。
 でも、そもそも「他者」とは何でしょうか。「あなた」や「友人A」や「彼」ばかりが他人でしょうか。「自分自身」は本当にこの世に一人なのでしょうか。

 解離性同一性障害は、岩崎式日本語に限らず、一般的に見てもとてもわかりにくい「心の叫びのあり方」で、存在を認めていない医者や学者もたくさんいます。

 でも、それは正しい・間違いという問題でもなく、「その人なりのパーソナリティーから来る正当防衛の本能で、病気扱いする必要がない」という意味で「認めない」という考え方もあるようです。

 DSM-IVの診断基準は以下のようになっています。

A. 2つまたはそれ以上の、はっきりと他と区別される同一性 (identity) または人格状態 (personality states) の存在 (その各々はそれぞれ固有の比較的持続する様式をもち、環境および自我を知覚し、かかわり、思考する)。
B. これらの同一性 (identity) または人格状態 (personality states) の少なくとも2つが反復的に患者の行動を統制する。
C. 重要な個人的情報の想起が不能であり、普通の物忘れで説明できないほど強い。
D. この障害は物質(例:アルコール中毒時のブラックアウトまたは混乱した行動)または他の一般的疾患(例:複雑部分発作)の直接的な生理的作用によるものではない。注:子供の場合、その症状が想像上の遊び仲間(イマジナリーフレンド imaginary friend)、または他の空想的遊びに由来するものではない。
(アメリカ精神医学会『DSM-IV 精神疾患の分類と診断の手引き』 1995年、医学書院)

 解離性障害はどれも女性が多いのですが、この解離性同一性障害は一番女性の割合が高いです。解離性同一性障害はとても独特なので、解離性障害とは別にする考え方もあります。人によって定義が違うので、注意が必要なのです。

 そして、解離性同一性障害の友人にも岩崎式日本語文を書いてもらいました。とても驚くかもしれません。

「この」「その」「あの」といった指示語が入っているのは、自分の中にある別人格を他人として見ているのです。今の人格からの距離感を表していて、「この」「その」「あの」の順に主人格から近いのです。「彼」や「彼女」と言うこともあるのです。

 それに、「ゐう」や「わ」の数は、今現在意識にのぼっている(存在を把握したり、存在に注目している)主人格と別人格の人数を表しています。

■岩(9-1):ゐむたこのゐたそのゐーねは、空を見上げぐます。

■岩(9-2):わきゅうきかわかつたの毎日は、努力の日々です。

■岩(9-3):ゐーなゐーこ彼ぐ彼女けは、電車さの中にいると笑われらているような気がして苦しいらです。

■岩(9-4):猫たちふは、わのうりあのわっきこのわたしの気持ちをわかっています。

STEP10 知らない「わたし」 :解離性健忘・解離性遁走

記憶が飛んでいる一定の期間がある

 解離性健忘・解離性遁走を持つ女性も、何人か岩崎式日本語で症状を表現し合っています。と言っても、解離性障害を持っていれば、みんなどこか解離性同一性障害の気配があったり、健忘・遁走の傾向があったりするのです。

 岩崎式日本語の使用者どうしでは、特に記憶に関する文や、一定期間の日記だけに極端に普通の日本語の「わたし」から遠い我燈(STEP1参照)を使っている友人がいた場合、健忘・遁走したことを疑っています。

 解離性健忘のDSM-IVの診断基準は以下のようになっています。

A. 優勢な障害は、重要な個人的情報で、通常外傷的またはストレスの強い性質を持つものの想起が不可能になり、それがあまりにも広範囲にわたるため通常の物忘れでは説明できないような、1つまたはそれ以上のエピソードである。
B. この障害は解離性同一性障害、解離性とん走、外傷性ストレス障害、急性ストレス障害、または身体化障害の経過中にのみ起こるものではなく、物質(例:乱用薬物、投薬)または神経疾患またはその他の一般身体疾患(例:頭部外傷による健忘障害)の直接的な生理学的作用によるものではない。
C. その障害は、臨床的に著しい苦痛または、社会的、職業的、または他の重要な領域の機能における障害を引き起こしている。

 解離性遁走のDSM-IVの診断基準は以下のようになっています。

A. 優勢な障害は、予期していない時に突然、家庭または普段の職場から離れて放浪し、過去を想起することができなくなる。
B. 個人の同一性について混乱している、または新しい同一性を(部分的に、または完全に)装う。
C. その障害は、臨床的に著しい苦痛または、社会的、職業的、または他の重要な領域における機能の障害を引き起こしている。
(アメリカ精神医学会『DSM-IV 精神疾患の分類と診断の手引き』 1995年、医学書院)

 そして、解離性健忘・遁走者の岩崎式日本語文が以下です。

 たとえば、「昨日」という具体的な日の入った文の我燈が、空識間我になっています。だから、この人は昨日、知らないうちにどこかに行ってきたのです。そのときばかりは現実逃避できて、わりと気が楽だったのです。遁走していたか、解離性同一性障害として別人格を作っていたか、どちらかが疑われることになります。

■岩(10-1):ゐうーは昨日、どこかに行きくきました。

■岩(10-2):家族はわぐるわぐりを理解しない。

STEP11 崩れる「わたし」 :統合失調症

幻聴・妄想がある、非現実を現実と思う

 統合失調症の人にも、岩崎式日本語を使っている人が数人います。統合失調症の場合、いろいろと独特の苦労があるようです。

 昔は、解離性障害のうち解離性同一性障害がこの統合失調症に入っていました。今も病院を渡り歩くと、診断がバラバラだったりします。でも、診断がすべて間違いなのではなく、本当はつながっている症状もあるのです。

 岩崎式日本語では、我燈に「ゐ」や「わ」がたくさん入っているわりにそれぞれの自我や記憶力がとても明確なら解離性同一性障害、入っていないわりに自我全体が薄かったり支離滅裂だったら統合失調症に該当する、ということが言えるのです。つまり、二つの病気の「間」にいる人も、世の中にはいるのです。

 ただ、基本的には、岩崎式日本語は、解離性障害、特に中度・重度の離人症性障害やうつ病・社交不安障害寄りの人に一番親しみやすいと私たちは思っています。

 さきほどの解離性健忘・遁走にかかる人の数は、一般の離人症・解離性障害にかかる人の数よりもずっと少ないですが、統合失調症は一生涯に100人に一人がかかります。精神疾患の中でも多い症状なのです。軽いものも合わせると、一時的にかかっている人は多いのです。

 シュナイダーの第一級症状というものがあり、統合失調症に特徴的な症状と言われます。でも、この条件だけだと、解離性同一性障害の一部や、妄想性障害の一部は、この条件を全部満たしてしまうのです。だから、現在はこれだけで診断されることはなく、慎重に総合的に診断が行われています。

シュナイダーの第一級症状
(1) 自分の思考が反響して聞こえる思考化声(自分の考えている内容が存在しない幻聴となって聞こえる)
(2) 複数の人の対話形式の幻聴。(複数の人が自分についてうわさなどをしている声がきこえる)
(3) 自己の行為を批評する幻聴(自分が何か行動や発言をしようとするとその行為を非難するような声が聞こえる)
(4) 身体への悪意ある行為(誰かに監視されている、誰かに命を狙われているなどと思い込む)
(5) 思考奪取をはじめとする思考領域の不特定の影響(自分の思考が他人に抜き取られて、ばれてしまうと思い込む)
(6) 考想伝播(自分の考えは、周りの人に筒抜けになっている)
(7) 妄想知覚(関係ないものを無理に関連付けて考える)
(8) 作為体験(他人に自分の思考、意志、行動を操作されているという感覚)

 以下が統合失調症者の岩崎式日本語文です。統合失調症の場合、自我が希薄だったり崩壊したりしているので、「苦しみ」の自覚に当たる感情が希薄な場合も多く、抽化言や抽出言があまりないか、心描言になっていることも多いのです。

■岩(11-1):ゐうーはこのゐうーは明日も生きます。

■岩(11-2):いつだか、ゐむふは空から来ました。

■岩(11-3):そのわぐるの考えがだれかにばれそうです。

STEP12 巫女としての「わたし」 :解離の強調

解離性障害や統合失調症は古代の巫女の見ていた世界

 次は、古代の巫女と、私たちの解離性障害などの症状との関連のお話なのです。

 突然ですが、卑弥呼やイタコのような昔の巫女たちやシャーマンたちは、今の私たちの解離性障害に近い症状を持っていて、それを「神がかり」と呼んだり、神がかりになって聞いたことを「神のお告げ」と言ったりしていた、という説があります。

 これは、岩崎式日本語の独自の考えというよりは、おもに解離性障害、特にトランス・憑依障害、解離性けいれんなど特定不能の解離性障害の患者さまを診てこられた学者・医者の説です。これはたしかに、私たちの感覚から言っても、実は病気ではないのではないかという前向きな意味で、「そうかもしれない」と感じます。

 岩崎式日本語は、この説を採用、というより、最初からそのように作られています。

 岩崎式日本語では、特に解離性障害の女性で、憑依障害、解離性けいれんなどが併発しているような人は、我燈に文字どおり「巫女(みこ)」を宣言することができます。「巫女宣言」と言います。

 岩崎式日本語の「巫女宣言」を見る前に、誤解されてもいけないので、「特定不能の解離性障害」の医学的な定義を見ておきます。

 特定不能の解離性障害は、「解離性健忘、解離性遁走、解離性同一性障害、離人症性障害のいずれにもにも該当しない解離性障害」とされていますが、実際にはそれぞれの解離性障害者がいろいろな解離症状をまたいで持っています。メインとなる症状がトランス・憑依・けいれん・感覚脱失などである女性が、昔で言う「巫女」に近いのだと思います。

1. 臨床状態が解離性同一性障害に酷似しているが その疾患の基準全てを満たさないもの。例としてはa)2つ又はそれ以上の、はっきりと他と区別される人格状態が存在していない。またはb)重要な個人的情報に関する健忘が生じていない。
2. 成人の現実感喪失で、離人症を伴わないもの。
3. 長期間にわたる強力で威圧的な説得(例:洗脳・思想改造・人質になっている間の教化)を受けていた人に起こる解離状態。
4. 解離性トランス状態:特定の地域および文化に固有な、単一の または挿話性の意識状態、同一性または記憶の障害、 解離性トランスは、直接接している環境に対する認識の狭窄化、常同的行動 または動作で、事故のいしの及ぶ範囲を 越えていると体験されるものに関するものである。 憑依トランスは、個人としてのいつもの同一性感覚が、新しい同一性に置き変わるもので、魂・力・神または他の人の影響を受け 常同的な”不随意”運動 または健忘を伴うものに関するものである。 その例として、 アモク(インドネシア)、ビバイナン(インドネシア)、ラター(マレーシア)、ピプロクトッタ(北極)、アタク・ド・ナビオス(ラテン・アメリカ)及び憑依(インド)などがある。解離性障害またはトランス障害は、広く受け入れられている 集合的文化習慣 または宗教行為の正常な一部分ではない。
5. 一般身体疾患によらない意識の消失、昏迷、または昏睡。
6. ガンサー症候群:質問に対して大雑把な応答をすること(例:“2たす2は5”)で、解離性健忘または解離性遁走に伴ったものではない。
(アメリカ精神医学会『DSM-IV 精神疾患の分類と診断の手引き』 1995年、医学書院)


岩崎式日本語の「巫女宣言」

 それでは、岩崎式日本語の「巫女宣言」を見てみます。

 いろいろな我燈については、あいかわらずこちらの『「第四期岩崎式日本語」大全』別添資料(5) 我燈一覧表(PDF,図表)を見ていただけるとよいのですが、巫女燈には、今述べたような特別な意味があります。

 この「巫女宣言」は、私たちのような「病気の」解離性障害者だけでなくて、いわゆる巫女や祭祀や和歌詠みの仕事をしていらっしゃる女性の方々で、健康でありながら解離性障害のうちの憑依障害の(憑き物に憑かれたように見える)女性や、いつもと違う精神状態で和歌を詠む女性の症状も参考にして作られています。

 でも、巫女宣言できるのは、おもに解離性障害、それから一部の統合失調症の女性で、社交不安障害の場合はほとんど巫女宣言しないのです。

 最近は、解離性障害になる原因の一番は、幼少期の性的虐待・暴力被害のようです。

 ちなみに、同じ被害を受けても、解離性障害になるか、統合失調症になるか、不安障害になるかは、一卵性双生児の両方が同じ心の病気になる確率が高い研究結果がたくさんあるので、遺伝的にある程度決まっていることがわかります。

 でも、昔の女性では、性的被害というより、自然の山や海を見たときに脳が強い「感動」や「圧倒」を受けて、それによって解離性障害が出ていたのではないかと、私たちは考えています。

 日本神話にも世界の神話にも、処女懐胎や、神と行為をして神の子を産むような話がたくさんありますが、「自然を感じる感動」は、たぶん山や海や神に襲われるような感覚やあきらめだったのかもしれません。でも、それは今の性犯罪とは違う気がします。

■岩(8-4):先生がゐてなみこを叱りました。

■岩(9-1):ゐむたこのゐたそのゐーねみこは、空を見上げぐます。

■岩(10-1):ゐうーみこは昨日、どこかに行きくきました。

■岩(11-2):いつだか、ゐむふみこは空から来ました。

STEP13 コミュニケーションが苦手 :発達障害

コミュニケーションの「障害」ではなくて「苦手」なだけ

 発達障害者の岩崎式日本語の使用者には、男性もいらっしゃいます。解離性障害や統合失調症にくらべて、もともと男性が多い障害です。

 でも、よく「コミュニケーションの障害」で「人の心がわからない」と言われますが、逆にいろんな人や物事をよく観察していて、いろんな人の気持ちを気にしすぎてコミュニケーションが苦手になっているだけで、こだわりは人一倍強いとは思いますが、根はやさしい人が多いという風に思うのです。

 だから、社交不安障害とも似た症状が出ますし、岩崎式日本語でも同じような文面になりますし、特にアスペルガー症候群の人はそうなります。

 でも、重い自閉症の子たちや知的障害者の方は別で、言語に障害があるので、岩崎式日本語も使うことができません。

 以下は、なんとか発達障害の男性に説明させていただいて、書いていただいたものです。社交不安障害のステップと同じ文を入れています。男性の文らしく、格式的な感じを出すために、「わ」+音読みが使われています。

■岩(13-1):わいらは明日、人前らで発表らしなければなりません。

■岩(13-2):わたしは街中かが苦手です。

■岩(13-3):わいかつと会合らに出ます。

■岩(13-4):わかっしゅは電車さの中にいると笑われらているような気がして苦しいらです。