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岩崎純一のウェブサイト > 知覚・共感覚 > 岩崎純一が答える「共感覚 Q&A」
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岩崎純一が答える「共感覚 Q & A」

■皆様から頂いた共感覚に関するご質問・ご相談のうち、私の記憶に残るものと、私からの回答を掲載しています。
(ご質問本文の掲載は、許可が得られた場合のみです。)

 他の共感覚サイト(大学の共感覚研究サイトなど)ではあり得ないような(把握していても載せられないような)性質のご意見、極めて奇抜に見えながら実は昨今の日本の社会問題を反映しているご意見を、積極的に取り上げています。

 日本におけるいわば「共感覚疎外」の現状をあらわにするために設けました。ここで言う「疎外」とは、当然マルクスになぞらえた使い方であり、「少数派である共感覚者が置かれた」現状のみならず、「少数派であったはずの共感覚者が今や誰かを苦しめる側に立っていることに気づかない」現状をも、私なりに指しています。

 個人名は、適宜「あなた」などに直してあります。原文としてはお一人ずつに別々の文章でお答えしておりますが、このページでは、類似のご質問を併記し、全般的な回答になるように若干文章を追記しました。


【ご質問】
岩崎純一さんの共感覚の例(画像など)を見ていると、失礼ながら、危険ドラッグとか覚せい剤とか、何かヘンな薬物をやっているか、文字に適当に色を塗って妄想世界を創り上げているか、どちらかなのでは?と思ってしまいます。本当のところはどうなのでしょうか?
 ・・・【私からの回答】
【ご質問】
「色聴」という言葉は間違っていませんか?
(「色聴」と「音視」は逆ではないのでしょうか?)

 ・・・【私からの回答】
【ご質問】
共感覚をシャットダウンしたくて仕方ないです。アドバイスいただけますか?
 ・・・【私からの回答】
【ご質問】
私は統合失調症ですが、共感覚者とも言えますか?
(私は精神疾患ですが、共感覚者とも言えますか?)
(私は強迫性障害を診断されましたが、共感覚との違いが分かりません。教えていただけますか?)
(私は解離性同一性障害の女性ですが、私の見ている世界は共感覚でもある気がします。違うのでしょうか?)
(私はアスペルガー症候群ですが、共感覚も持っている気がします。判断に自信がないので、アドバイスいただけますか?)

 ・・・【私からの回答】
【ご質問】
共感覚は「感受性」や「心の悩み」と関係ありますか?
(私の共感覚は私の鬱々とした性格と関係があるという思いは誤っているでしょうか?)
(共感覚は本当に「感動」・「感情」といった心の動きと関係なくて、「知覚」・「認知」の分野なのでしょうか?
(共感覚者には、心が感じやすい人が多いですか?)
(私は自分を過剰に「傷つきやすい人間」と感じて悩んでいます。それは何か共感覚に関係していますか?)
(私はこの世を生きにくいと感じていますが、私の共感覚と関係がありますか?)

 ・・・【私からの回答】
【ご質問】
共感覚者は女性に多いのですか?
 ・・・【私からの回答】
【ご質問】
共感覚は本当に実在するのですか?
(共感覚者を自称する職場の同僚を信用してもよろしいでしょうか?)
(共感覚は、「人に話を聞いてもらいたい」というわがままによる虚言ではないでしょうか?)

 ・・・【私からの回答】
【ご質問】
部下の共感覚者が鬱陶しいです。指導するにあたり、アドバイスをいただけますか?
(共感覚や学習障害を社会に持ち込む人をどうにかしてほしいです。)
(世の中はなぜ共感覚ごときで個性だ個性だと騒ぐのですか?)
(ほとんどの共感覚者は、実際は大したことのない感覚しか持っていないのでは?)

 ・・・【私からの回答】



岩崎純一さんの共感覚の例(画像など)を見ていると、失礼ながら、危険ドラッグとか覚せい剤とか、何かヘンな薬物をやっているか、文字に適当に色を塗って妄想世界を創り上げているか、どちらかなのでは?と思ってしまいます。本当のところはどうなのでしょうか?

【私からの回答】

 本当のところは、違法薬物も使用しておらず、文字に適当に色を塗って妄想世界を創り上げてもおらず、生身の自分の知覚世界を忠実に再現したものが、私の共感覚の例になります。

 このような知覚世界を公表しておりますと、嬉しいことに、哲学や文学や芸術、神経科学や生物学や医学など、様々な学術分野の方々から研究上のお問い合わせを頂くことも多いですが、一方で、違法薬物の使用者からの不審な問い合わせが送られてくることも確かです。

 特に欧米の共感覚研究では、共感覚者の知覚世界が一部の違法薬物によっても人工的に体験されるという科学的知見が多く示されていることは確かです。この知見の差は、日本と欧米諸国とで薬物の分類法や法律上の扱いが異なること(欧米諸国では多くの合法的な薬物共感覚実験が可能であること)に、主に起因しています。

 これについては、私個人が立ち上げた日本共感覚研究会の活動の一環として、違法薬物による共感覚体験に関する調査報告書を作成しておりますので、下記のサイトの調査報告書のページからご覧下さい。この研究会は、日本の共感覚研究や共感覚に関連ある学術研究及び社会的諸問題の動向・実態の調査・追跡を行っております。

 私のもとには、とりわけ「岩崎さんの画像Aのような色彩感覚を得るには、どの危険ドラッグがよいですか?」、「今度どこそこで薬物Bのパーティーをやるので、参加しませんか?」といった、私の違法薬物使用を前提とした問い合わせが送られてきます。この通りの日本語文ではなく、隠語・暗号を用いた独特の言い回しが使われており、そもそも違法薬物の使用中や使用直後と疑われるような不審な様子のもとに送られてきます。

 このような問い合わせについては、無視することも多いですが、ある程度の発信者情報が分かる場合には、公安当局・警察に通報し、情報を提供しております。

日本共感覚研究会トップ
日本共感覚研究会(旧 日本共感覚関連動向調査会)




「色聴」という言葉は間違っていませんか?
(「色聴」と「音視」は逆ではないのでしょうか?)

 類似のご質問を数名の方から頂きました。うち、掲載許可を下さったお一人の例を挙げています。

 岩崎純一さま

 岩崎さまにお聞きしたいことがあります。
 私は前々から「色聴」という言葉に違和感を感じています。それは、日本語としておかしいのではないかと思うからです。

 まわりの友人にも聞いて回ってみたのですが、だれもほとんど興味がないようで、今理解者がいない状態です。でも、もし私の疑問が正しくて、言葉のほうが間違っていたら、どうしても直したい、直ったらいいのにと思ってしまうのですが、自信がありません。

 ただ、よくよく見てみると、やっぱり滑稽な間違いなのではないかと思うのです。「色聴き」として「いろぎき」と読むと、これはもともとの日本語なので、正しい感じがするのですが、「しきちょう」や「しょくちょう」と読むと、ひっくり返して「聴色」にしないとおかしいのではないかと思うのです。

 それに、「音視」という言葉も見かけますが、今「色聴」と言われているものが「音視」という気がします。「音に色を視ている」からです。

 岩崎さまはどうお考えか、よろしければ教えていただけますでしょうか?

【私からの回答】

 結論から申しますと、あなたの疑問は極めて正しいものだと思います。かなり鋭いご質問・ご提案です。

 あなたと同じ疑問をブログにお書きになっている方もいらっしゃいます。(以下参照。)

(【共感覚】「色聴」と「音視」って逆じゃない? http://readysg.blog71.fc2.com/blog-entry-694.html

 日本人は、歴史上、様々な西洋語圏からの輸入概念を漢字塾語によって表してきましたが、おっしゃるとおり、「色聴」・「音視」は、日本語としては誤りであると言えます。非常に鋭いご指摘で、感心致しました。

 本来ならば、「色を聴く」ということ一つ取っても、「聴色(ちょうしき・ちょうしょく)」でなければならず、さらにそもそも、英語圏の共感覚研究においては「colored-hearing」が「音の色を聴く」共感覚ではなく「音に色を視る」共感覚を表している、すなわち「see colored-hearing」であり、「hear color」ではないのであって、正しい翻訳は「視音」であることになります。

 上記の方のブログにある「漢字を借りて西洋語を日本語に翻訳する場合の六大規則」、すなわち、同義の字の連続、対義の字の連続、修飾・被修飾関係、動詞・目的語(補語)関係、主述関係、上の字による下の字の打ち消しは、古くは漢文訓読の頃から意識されてきたもので、1500年近くの歴史を持ちます。

 この造語法は、明治の文明開化に伴う漢字熟語の大量生産期にも、漢語(漢文)をもとにして福澤諭吉や夏目漱石ら「造語の名人」を中心に試されました。今日まで綿々と受け継がれてきた国語の基本であり、「日本人の知恵」と言えます。

 これは、一般の欧州語と同じくいわゆるSVO類型に属する漢語(中国語)に倣った非常に便利な造語・統語法であって、漢字を用いて西洋語を日本語に翻訳する際には必ず意識されているべきものだと言えます。

「もともとの日本語」とおっしゃっているものは、「やまとことば」と呼ばれるものです。この場合、SOV類型ですから、おっしゃるように「色聴き(いろぎき)」という造語はあり得ます。むしろ、「いろぎき」や「音視(おとみ)」という新語を提唱してみてはいかがでしょうか。「おとづれ」や「おとなひ」といった語につながる、大変に美しい発想かと思います。

 そこまで考えますと、現在の「色聴」や「音視」という熟語が持つ二重の誤り(熟語構成の誤り、「color、hear」の意味と主述関係の解釈の誤り)は、看過しがたいものだと言えます。

 ただ、一言で言いますと、今から修正をかけていくことは、極めて難しいのではないかと思います。

 また、「使い慣れた(誤りが指摘されずに普及した)ものを間違いだと言えるか」という、よくある反論が待ち受けています。東大や京大の研究者が採用している用語ですから、それを模倣して使用している一般の共感覚者を批判するのは、少々お門違いとも言えそうです。

 そもそも共感覚研究者が、若年期に学習したそういう統語規則を覚えていたり、漢文や国語学・日本語学を勉強していたりするとは限らないわけです。「色聴」や「音視」のどこに違和感があるのかが分からない日本の研究者がほとんどだと思います。実際にそうおっしゃった研究者も、私の周りにいらっしゃいます。また、そういう状況だからこそ、「色聴」という語が生まれてしまったのだと思います。

 先の統語規則(syntax・シンタックス)は、共感覚用語に限らず、日本の医学用語・物理学用語・化学用語の増産に伴い、昨今はしばしば破られつつあります。一番の原因は、日本の知識人・教員層が漢文を嗜まなくなったことにあると言えますが、現在は英語(米語)一辺倒の風潮にありますから、どうにも路線変更自体が不可能になってきていると思います。

 心理学・神経科学などの本で、共感覚が紹介されているページなどでは、これら「色聴」・「音視」の語が普通に使われていますし、外国の研究者に対しても「シキチョー」・「オンシ」という発音で紹介されている状況です。日本の「色聴」の専門家の方々も、「色聴」の語によって研究・サイトを展開していらっしゃる状況です。

 私は、自分のサイトでは「色聴」や「音視」という語の使用を意図的に避けていますし、使うとしても、文脈上仕方のない時に限っています。ただし、被験者として研究・実験・論文などに参加する時には、一人だけ違うことを言っても学術的に認められないわけですし、仕方なく「色聴」や「音視」を使っています。もちろん、不満は感じています。

 そういうわけで、結論としては、「まず自分が分かっているということが重要で、理解者が少しいてくれれば嬉しい。でも、日本の共感覚研究界全体に修正を求めることはすでに難しい」といったところではないでしょうか。

 すでに「聴色感覚」・「サウンドカラー共感覚」(上記のブログ執筆者のご提案)などの新語に変更することが難しい段階まで来ているような気がしますが、私のほうで機会があれば、「共感覚のような、新たな分野を開拓するときには、日本語の使い方、翻訳の仕方にも目を向けてみたらどうだろうか」と、色々な先生方に申し上げておきます。

 ちなみに私は、「女性の生理現象に色が付いて見える」自分の共感覚を、自分で「対女性共感覚」と名付けました。これは、「女性に対する共感覚」であって、先の統語規則(シンタックス)から見ても、この語順しかあり得ないことになります。「対人」・「対空」といった語と同じ造語法で、「対」の下に来る語が補語となります。もちろん、「ペア」の意で「対(つい)」と読む場合には、これに続く語は被修飾語です。




共感覚をシャットダウンしたくて仕方ないです。アドバイスいただけますか?

 類似のご質問を数名の方から頂きました。うち、掲載許可を下さったお一人の例を挙げています。

 岩崎純一先生

 私は、とても強い共感覚を持っているという自覚があります。
 正直辛いところがあります。

 共感覚のシャットダウンの方法を教えていただけますでしょうか。

 私は人の感情を、色、形、匂い、味などで感じてしまいます。
 日常生活で工夫や対策は色々取り入れていますし、文字の色、形、匂い、味は辛くないのですが、人の感情や人間関係だけは強い色、形、匂い、味として入ってくるので、防ぎようがないのが現状です。

 よろしくお願いします。

【私からの回答】

 かなり単純に、「シャットダウンする方法があるかないか」の二者択一で言いますと、残念ながら、ないと思います。私にとっても、やはり、ないですね。

 それは、唐突な話になりますが、血流をシャットダウンしたり、視力をシャットダウンしたりする方法が、何らかの事故や「死」以外にあり得ないのと同じことだと思います。ご経験上、きっと分かっていらっしゃるとは思いますけれど。

 よほど年を経るに連れて共感覚が薄れている人でない限り、共感覚のシャットダウンは、正確には「死」によってのみ訪れることになると思います。生きている中での苦労や他人との感情のやり取りが終焉する、シャットダウンされるというのは、基本的にはそういうことだと思うのです。

 もちろん、他のことに集中することで共感覚を気にしなくなる、などの対策はあるでしょうが、それは非常によくある俗的・処世訓的なアドバイスで、日々の生活の中で完全にシャットダウンする方法は私も知りません。

 大切なのは、ご自身の共感覚そのものをシャットダウンしたいのか、共感覚を理解してくれない周囲の人たちや風評をシャットダウンしたいのか、ご自身で理解することだと思います。むしろ、後者のご相談のほうが多いので、一応書いておきますね。

 共感覚そのものがシャットダウンしたいほど強烈で苦痛なのであれば、第三者による手助けや専門の医者による診断が必要な場合が出てくるかと思います。

 実際に、日常生活に困っている知人の共感覚者が病院に行かれたのですが、精神科・心療内科を勧められていました。しかしそれは、医者が間違っているわけではないとも思います。共感覚が元で、強迫性障害や気分障害の名で精神疾患を診断されることがあります。(詳しくは、私のサイトの精神疾患関連のページや、別のご質問への私の回答をご覧下さい。)

 周囲の人たちの無理解をシャットダウンしたいのであれば、それはどうしても、我々共感覚者が自分たちでそれぞれの事情に合わせて考え、対応するしかないと思うのです。無理解に反応したくなければしなければよいと思いますし、何か反論したければ反論すればよいとも思います。どちらが正しいということもないと思いますし、どちらも一生懸命にやっていることであれば、それでよいと思います。




私は統合失調症ですが、共感覚者とも言えますか?
(私は精神疾患ですが、共感覚者とも言えますか?)
(私は強迫性障害を診断されましたが、共感覚との違いが分かりません。教えていただけますか?)
(私は解離性同一性障害の女性ですが、私の見ている世界は共感覚でもある気がします。違うのでしょうか?)
(私はアスペルガー症候群ですが、共感覚も持っている気がします。判断に自信がないので、アドバイスいただけますか?)

 類似のご質問を数名の方から頂きました。うち、掲載許可を下さった統合失調症の方の例を挙げています。具体的な疾患名を適宜「精神疾患全般」と読み替えても、私の主張は変わりません。)

 岩崎純一様

 私は統合失調症です。今はあまり症状は出なくなりました。
 統合失調症は、共感覚と違って本当の幻覚が見える病気ということになっているのですが、共感覚的なところもあると感じてきたので、ご相談させていただきました。

 精神科の主治医に、「文字に色が見える」、「音に色を感じる」、「匂いに色が見える」などと言ったところ、難しい顔をされました。

 統合失調症になったのは、ずいぶんあとですが、共感覚のほうが幼いころから起きていました。
 共感覚で見た文字の色などを描いて精神科に持って行ったところ、主治医が困っていたので、幻覚だと思われなければいいなと思っていました。

 でも、それは「共感覚は幻覚とは違う」という意味ではあっても、私の中では共感覚と統合失調症は精神の活動として素直に似ていると思うのです。
 主治医には理解されている感じがないので、とても寂しく思っています。
 また、むしろ共感覚者のほうが、「共感覚を精神疾患と一緒にしないでほしい」と言っているので、正直苦しいです。

 私の思いは、共感覚者を病気扱いするのとも違います。
 だれか私のことをわかってくれる人にいて欲しいです。

 もし、何かわかることがありましたら、教えてください。

【私からの回答】

 感想を素直に申し上げますと、あなたのおっしゃることは、私から見れば真っ当だと思えます。私の中でも、「共感覚者が見ている“知覚”としての文字や人の色と、統合失調症者が見ている“幻覚”としての文字や人の色とは、現象名としては別物であること」と、「共感覚と統合失調症(などの精神疾患)とは深い関係にあるという主張」とは、何ら矛盾しないと感じられています。

 逆に、「共感覚は精神活動・心の問題とは関係がない。一緒にされると困る」と主張する方々は、医者だけでなく、共感覚者当人にもいらっしゃいますが、これは単にこれらの方々があなたのような方ではないということ、つまり、全く精神疾患に陥ることのない軽度の共感覚のみを持っているために病院にかかる必要がない方々であるということのみを意味するのであって、「精神病理学の観点において、共感覚と精神疾患・精神活動との関係の深さの探究に意味がない」ということにはならないと思います。

 それに、そもそも共感覚と統合失調症(や各種の精神疾患)を併発している人を、私は何人か知っています。むろん、ここで言う精神疾患とは、ICDやDSMなどに記載されている精神疾患のことです。

 確かに、あなたの主治医のように、共感覚や統合失調症そのものを理解できていない(しようとしない)医療従事者も多いと感じます。ただ、共感覚と統合失調症の深い関係、共感覚者と統合失調症者の知覚・認知の仕方の共通点を直観的に分かっている方も、いらっしゃると思います。

 全てが医者の診断ミスと言えないことも確かだと思います。共感覚と統合失調症の両方に理解のある医者であっても、「診断」というのは「分類すること」ですから、どれかの診断名に患者の症状を落とし込まなければなりません。

 おそらく共感覚と統合失調症は、それらの脳における発生原理・機構において区別が曖昧な領域を有しており、「知覚の側面」から名付けるか、「精神病理の側面」から名付けるかで、医者によって判断が変わってくるのだと思います。ただし、医者が共感覚を知らない場合は、医者としての能力というよりは、単なる知識不足の問題である可能性もあるわけので、こちらから真摯に伝える努力をすることにはなりますが。

 つまり、あなたという一人の人間の、或る側面に「共感覚」、別の或る側面に「統合失調症」という名が付いているということだと思うのです。

 あなたのように、共感覚と統合失調症(精神疾患・精神活動)の近さを直観できている人は、あまりに共感覚が強度であり、共感覚の最も精神障害に近縁の領域を見ているということが言えると思います。

 例を挙げておきます。まず、あなたと同じように、幼少期に共感覚を経験し、のちに統合失調症と診断された男性の映像です。人の命よりも利益を優先する会社・上司の姿勢に違和感を覚え、それに反論しているうちに「殺すぞ」と言われて、統合失調症を発症しています。

 私の統合失調症を語ろう

 それから、共感覚と精神疾患が同一の人間に生じているケースは、統合失調症者に限りません。以下は、私が出会った二人の解離性同一性障害の女性の例です。つらい虐待被害体験によって共感覚が蘇った女性です。主治医や他の共感覚者に対してあなたと同じような疑問を持ってきた方々です。

 解離性同一性障害において見られる共感覚

 また、幼少期に文字を自分の好きな共感覚色に塗ったところ、母親に怒られてそれがトラウマとなり、それ以来、自分の共感覚色で描かれた文字を街中で見ただけで誰かに怒られるのではないかと警戒するようになり、「強迫性障害」を診断された女性がいらっしゃいます。主治医が共感覚を知らなかったのですが、「数字の4や9や13を不吉と感じる」タイプの強迫性障害と同等と見たのでしょう。

 アスペルガー症候群についても、同じことだと思います。或る一人の人間の、或る側面に「アスペルガー症候群」、或る側面に「共感覚」という名が付いているということだと思います。

 ただし、あえて申し上げてみますと、あなたのような方が注意したほうがよい点もあると思います。

 特に、これは病院をハシゴする習癖のある女性の方に多いのですが、病院・医者を変えるたびに診断名と薬が変わっているような方の場合、精神疾患のさらなる悪化と薬の乱用・後遺症のほうが要注意だと思います。病院をハシゴし、薬をとっかえひっかえしすぎて、最後は何が何だか分からなくなったという人もいます。要するに、この人は、病院に行く前のほうが健康で、精神疾患ではなかったわけなのです。

 ちなみに、統合失調症は今でも、日本の入院患者数第一位の疾患です。中には誤診が含まれており、別の疾患であるようなケースも多いのですが、ともかく毎年統合失調症の入院患者と新規患者増加阻止の対策にかけているコストは莫大なものになっています。本人の生活に原因があるとは限らないがんや心疾患よりも多いのですから、なおさら統合失調症は本人に原因がある疾患とは限らないと見るべきです。

 誤診をとりあえず考慮に入れないで申し上げますと、統合失調症の生涯罹患率は1%、つまり、100人に一人は罹患することになるため、強度の共感覚を持つ方が100人に一人くらいだと無理矢理に仮定すると、世の中には強度の共感覚者と同じくらい統合失調症者がいらっしゃるわけです。
(入院中の統合失調症者が多くいる一方で、共感覚者はいわゆる一般社会で生活している人がほとんどですので、一般の人たちは、普段の生活では共感覚者に出会う機会のほうが圧倒的に多いと思います。)

 そのような状況で、「共感覚と精神疾患・精神活動は無関係」と考えることは、全く論理的ではなく、あなたのおっしゃることはとても的確だと思います。

 あなたのような場合、ご自身の症状が、共感覚から来るのか、統合失調症から来るのか、と考えるよりは、全部まとめてしまい、あまり分類せずに受け止めるのも、一つの方法かもしれないと思います。分類の必要があるのは、「学問する」時であって、「生きる」時ではありませんからね。

 私の場合、ありとあらゆる精神疾患に共感覚を照らし合わせて探究してみています。

 もう一度、結論を申し上げますね。「共感覚を精神疾患と一緒にしないでほしい」と主張している人の場合、その人の共感覚には精神疾患・精神活動・「心の痛みや感動」の領域と重複するものがないから、そういう主張になっているだけです。それは、「共感覚と精神との間に深い関係を見る」あなたのような優れた視点を侵犯してはならないと私は思いますし、侵犯できないものだと私は思います。




共感覚は「感受性」や「心の悩み」と関係ありますか?
(私の共感覚は私の鬱々とした性格と関係があるという思いは誤っているでしょうか?)
(共感覚は本当に「感動」・「感情」といった心の動きと関係なくて、「知覚」・「認知」の分野なのでしょうか?
(共感覚者には、心が感じやすい人が多いですか?)
(私は自分を過剰に「傷つきやすい人間」と感じて悩んでいます。それは何か共感覚に関係していますか?)
(私はこの世を生きにくいと感じていますが、私の共感覚と関係がありますか?)

 類似のご質問を数名の方から頂きました。うち、掲載許可を下さったお一人の例を挙げています。

 岩崎純一様

 わたしは、たぶん共感覚者と言えるのですが、岩崎様のサイトを訪れて、「心の悩み」についてのページがたくさんあったことに、安心感を覚えました。
 それはわたしが、そういったことに興味があり、わたし自身が共感覚と性格(心の動きや悩み)が結びついた人だと思っているからです。

 わたしは小さいころから、とても感受性が高く、自分で思っているというより、親や周りからそう言われてきたのですが、
 文字や音に色が見える感じも、その感受性の中に入っていました。

 それなのに、今いろいろな共感覚の研究やサイトを見て回っていると、心のこととは関係ない、いわゆる知覚の問題なので、
 一緒くたにしたらいけないと書いてあります。

 それを見ていたら、また気持ちが暗くなってしまいました。

 岩崎様のご著書を拝読させていただき、最初のほうは正直、一般的な共感覚の本よりも共感覚の範囲が厳しいと思いましたが、
 文化のお話や、発達障害の方々への思いなどが書かれていて、ああ、わたしの気持ちはこれだと思いました。

 わたしにとっては、とても出しゃばりなことかもしれませんが、共感覚をそのまま褒められることは、
 わたしの生き方や人格をそのままでいていいと言ってもらえているのと同じに感じます。

 ですので、それだけにその反対に、感受性や共感覚や心の悩み全体のことについて何らかの非難を身に浴びてしまうと、
 とても落ち込んでしまい、人間に苦手意識を持ってしまい、一日中寝ていたりします。

 それは、わたしの人間関係や就職活動に影響しています。
 わたしの共感覚は感受性と結びついているので、社会が苦しく感じます。

 岩崎様は、共感覚は「感受性」や「心の悩み」と関係ありますか?
 わたしはあると思うのですが、普通に誰かにしゃべっても理解される気がしません。

 とてもつまらないご相談で申し訳ございませんが、何かアドバイスをいただけたらと思っています。
 よろしくお願いいたします。

【私からの回答】

 私の身勝手な発想から結論を申し上げますと、あなたは、非常に優しく、思いやりがある方ではないかと思います。あなたは「共感覚」の語を、その生理学的な定義とは関係なく、「感受性」の意味で(「感受性」の別称の一つとして)使って生きていってよい人だと、私は思います。

 あなたのような感受性の持ち主には、特にわざわざ何かを説明するようなことはないと思っています。アドバイスするということは、アドバイスされる人の上に立つということでもあると思うからです。むしろ私に何かを学ばせて下さる方には、特にアドバイスすることはないと思います。でも、それでは無責任なので、少し書きます。

 あなたがおっしゃっていることは、一つ上の「共感覚と精神疾患との関係」に関するご質問と回答にも関係すると思います。「精神疾患」の範疇に入る精神活動か、そうでないかだけの違いと言えると思います。

 共感覚一つを取っても、解釈は本当に人それぞれです。私の共感覚観は、その中でも相当にこだわりがあるので、サイトご訪問者も極めて特徴的だと思います。

 簡単に申し上げますと、私は「共感覚は、各個人の感受性・精神活動・心の動きや、各民族の文化・習俗・民族性と関係がある」ことをずっと主張してきました。(詳しくは、私のサイト全体をご覧下さい。)

 それは、「文字や音に見える色彩は感動的である」・「風景や人間に見える色彩は私の美意識・美学に影響している」といった私自身の経験に基づいてもいますが、心因性精神疾患の発症によって共感覚が再生した方々や、発達障害と共感覚とを併せ持った方々に出会ってきたことにも基づいています。学校や職場でのストレス、暴力被害などによって共感覚がよみがえった方々がいらっしゃる中で、どうして「共感覚は精神活動とは無関係」と言えるでしょうか。

 私のサイトは、いわゆる共感覚者や共感覚研究者、つまり、(一つ上のご質問・回答における)「共感覚(知覚の問題)と精神活動・心の話(思惟の問題)を一緒にされると困る」という立場の方々よりも、あなた方のような人たちのご訪問が多いのです。

 少なくとも、「私はあなたのお気持ちが分かる」ということだけは言えそうです。

 でも、あなた方のような「共感覚を感受性の別称のようにとらえる」意見が同意されるか批判を受けるかは、時と場合と人によります。それは、私が特によく知っているかもしれません。

 私も、あなたと同じような見解を著書や講演で示してきたので、随分と批判を浴びたことがあります。現在も、「共感覚は精神活動ではない(感受性・感性・喜怒哀楽とは関係ない)」、「共感覚と発達障害は全くの別物である」とする主張が、共感覚者の中でも圧倒的です。

 以下は、共感覚を持つ発達障害児についての話題ですが、私から見れば、この子の母親や回答者よりも、この子を検査した医者のほうが正しい判断をしていると思えます。あなたのような共感覚者がこのような場でご質問なさると大勢の共感覚者からどういう回答が返ってくるかは、ここをご覧になるとよくお分かりだと思います。

 もちろん、どなたも真摯にお答えになっているとは思いますが、「共感覚は発達障害とは全く別のものです」という断言などは、やはり人として、してはいけないことだと思います。自分の身内に共感覚と発達障害の両方を持つ人がいないなら、探せばよいのだと思います。いえ、世の中にそういう人がいるだろうという予想が、初めからついていてもよいくらいだと思います。

 共感覚(色聴)をもつ子供

 一つ例を挙げます。「目が見えることは感動や心の悩みと関係がありますか?」と問うた人がいたとして、この人に対して「目が見えることは、単なる知覚処理の問題で、大脳の前頭前野における思考・思惟の問題とは無関係だから、関係がない」と答えた人がいたとします。つまりは、あなたに対して「共感覚を感受性と一緒にしてくれるな」と答えた方と同じことです。

 もうこの時点で、両者は全く言葉の使い方が異なっているのだと思います。「行間を読む」とか「人の気持ちを読み取る」とか「コミュニケーション」といったことが全く機能していないように思います。

 私は、言語学をやっているからかもしれませんが、このような言葉の応酬が極めて滑稽に思えます。問うた人にとっては、「目が見えること」の中に「今見ている星空の感動的な光景や昔目撃したつらい光景」がもう入ってしまっています。それに対して、答えた人の言葉は、「“目”や“視覚”を辞書や医学書で調べると、そんな定義は書いていない」ということしか意味していません。永遠にこのようなやり取りが続いて、疲労して終わるだけだと思います。

 共感覚についても同じことを思います。「共感覚を感受性と一緒にしないでほしい」と主張している人の場合、その人の人生においては、「感受性・感情・感動・感銘・性格・心の悩み・郷愁・哀愁・うつ状態・精神疾患」などの精神活動の領域と重複する体験や思惟が共感覚に伴ったことがないから、そういう主張になっているだけなのだと思います。

「がん」という病について、「私はがんになったが痛くなかった」と言う人もいれば、「私のがんはかなり痛かった」と言う人もいますね。これらをまとめると、「がんは痛みと関係がある」ということになります。論理とはそういうものだと思います。共感覚を人の心の営み、感動や苦悩と結びつけて考えることの重要性がどういうものか、お分かりいただけると思います。

 少し非難されただけで傷ついてしまい、人間に苦手意識を持ってしまうとのことですが、私も昔はそういうところがありましたね。今もそういうところがあるのかもしれません。それを乗り越えるための方法が、本を書いたり、サイトを運営したりして、同じ性質の人たちと知り合うことだと自分では考えています。

 まとまりのないことを色々と書きましたが、結局、少なくともあなた方とは、言いたいことが同じだと思います。

 拙著でも、共感覚と連想との違いについて、非常に厳しく書いているところがありますが、あれは、スピリチュアル業界に対する私の対策として書きました。ただ、かなり厳格に書きすぎたきらいがあると思います。こんな小細工を考える私のような人は「共感覚と精神活動に深い関係を見る」ところまでは進むけれども、自分自身が「精神疾患」だとまでは言えない、といったところでしょうね。

 あなたのような人たちが不当に批判されないように、「共感覚者としての認定」を受けられる間口を必要以上に厳格に狭くしない限り、今の日本の新宗教・スピリチュアルブームの現状からしてまずいことになると思ったために、あのように書いたのですが、実際には、「共感覚が豊かな人は、普段の連想力・想像力・傷つきやすさにも長けている」というのが、私の最も言いたいことです。

 ところが、後者だけを突然本に書いて世に出すと、まずいことになる可能性は、残念ながら日本の風潮としてあると思っています。

 少し横道にそれますが、いわゆる大乗仏教という仏教の大宗派がありますね。この中で、私は中観や唯識という思想が特に好きで、よく自分の共感覚と結びつけて考えるのです。一言で言いますと、「知覚は思惟である」ないし「知覚は心である」。これが、この二つの思想を共感覚に引き寄せた際の私の語り方です。

 簡単に言いますと、「感覚・知覚・認知・認識・思考」などと低次から高次に至る外界把握のプロセスを無理矢理に分類するから、おかしいことになるのだ、という考え方です。余談でしたが、ご興味があれば、以下もお読み下さい。

 自閉症・現代物理学・仏教哲学・日本の心についての一考
 (その一)  (その二)  (その三)

 さて、最後になりますが、他人からの非難に過敏に反応してしまうタイプだと、日常生活で色々と苦労されると思いますが、少なくとも私のサイトなどを色々とご覧になって安心していただけるところがあるとよいなと思います。

 上の精神疾患についての回答と同じような結論になりますが、もう一度書いておきます。

 共感覚によって感動・苦悩・喜び・悲しみを体験したことがない共感覚者は、「共感覚は精神活動とは関係がない」と言うに決まっています。共感覚によって感動・苦悩・喜び・悲しみを体験したことがあるという共感覚者は、「共感覚は精神活動と関係がある」と言うに決まっています。そして、両者の間にはすでに、「共感覚」の語の用い方の差異があります。




共感覚者は女性に多いのですか?

 類似のご質問を数名の方から頂きました。うち、掲載許可を下さったお一人の例を挙げています。

 岩崎先生

 共感覚者は、女性に多いのでしょうか?

 まず、共感覚者が何人に一人なのか、いろんな論文があってはっきりしません。
 2万人に一人なのか、20人に一人なのかさえも、よくわかりません。
 そのうえで、女性が男性の20倍くらいいるデータがあったり、男女同数だとするデータもあります。
 はっきり1対1と書いてある日本の大学のサイトも見てきました。

 岩崎先生は、どれが一番本当だとお思いですか?
 どれが一番信じられるデータなのでしょうか。

【私からの回答】

 このことは、時々話題になりますね。私の見解を申し上げますね。

 結論から申し上げますと、「現代の日本の言語障害がない定型発達の(独力で共感覚を報告できる)成人においては、女性のほうが多い」というのが私の見解(と申しますか、調査結果)です。詳細はここには書ききれないので、サイト・ブログ・拙著や以下のデータなどをご参照いただければと思いますが、一通り説明しておきますね。

 まず、本来、論文・研究データというものは「私情」を入れずに扱うべきものです。しかし、残念ながら、必ずその同時代の風潮・ブーム・世論に左右されていることが多いと感じます。共感覚のみならず、私がサイトで扱っている解離性障害や統合失調症や不安障害などの論文でもそうなのですが、「昔は女性ばかりの感覚や症状と思われていたが、男性にも同等に存在することが分かった」というニュアンスが入っている論文が増えてきています。

 これは、データの正確な分析の結果というより、一つの風潮だと思います。私なら、まずこういう論文から順番に疑ってかかってしまいます。

 もう何度もあちこちで書いてきたことなのですが、「共感覚者は男女のどちらに多いか」という疑問自体は、本来は学術的に何の意味もないと考えます。「成人になっても文字や音に色が見える感覚のこと」を「共感覚」と定義すれば、共感覚者の数は少なくなりますし、「誕生以降のどこかの時点で文字や音に色を感じたことのある全世代の人間の感覚のこと」をそう定義すれば、多くの人が共感覚者であることになります。

 執筆者が「共感覚者」の語をどの世代のどのような言語能力保持者に対して用いているかを解説していない論文の場合、「共感覚者」の語は、何を指しているかが分からないわけですから、読解することができなくなってしまいます。

 そうである以上、あなたのご質問も、本当はもっと厳密に成されなければ、答えが存在しないという気はします。ここでは、「共感覚者は、現代の日本の言語障害がない定型発達の成人において男性よりも女性に多いですか?」と聞かれたとしますね。

 そうだとしますと、これを私が調べた結果を、以下に載せています。特に「男女年齢別」の箇所をご覧下さい。

「岩崎純一のウェブサイト」へのご訪問者の統計 (1)(PDF)

 今の質問に対する答えは、「女性のほうにかなり多い」となりますね。

 一方で、幼少期の男女や言語障害者の男女を含めた上で比較すると、「男女に差はない」が答えになります。

 その上のほうに、言語障害・発達障害・解離性障害との関連を調べたデータも掲載しています。

 さて、今は純粋にデータ上のお話をしてみました。次に実体験上のエピソードを申し上げますと、私はいくつかの共感覚者サークル・集いに参加していますが、現在、男性は私だけなのです。以前は、男性もいたのですが、だんだん来て下さらなくなりました。他の共感覚サークルでも、男性はあまりいないそうです。

 生理学的定義の共感覚を持っているか否かという以前に、共感覚や自分の心の悩みをどうしても人に話したくなる(いわゆる「女子会」などでおしゃべりしたくなる)心境が優先的に女性において起きるために、女性の共感覚者の存在のほうが知られやすい、ということが「経験から」得られていることになると思っています。そのような心境や欲求は、女性のわがままではなく、女性の本能・母性本能のようなものなのだと思います。他人への依存に陥らない限り、健康なものだと思います。

 つまり、結論としては、次のようなことです。「共感覚を言語によって自力で報告できない言語障害者・発達障害者は男性に多い」こと、「共感覚を言語によって自力で報告できる年代になるまでに、男性のほうが優先的に共感覚を失う」こと、「これらの理由により、そもそも“共感覚者”の自助コミュニティが成人女性ばかりで構成されることになるが、女性ばかりで形成されたその場の空気に共感覚者男性がうち解けられず、いっそう共感覚者男性が表に出なくなる」こと、などが、私の調べたデータと私の経験の双方から確認できる、ということです。

 それから、確かに、日本の大学の研究者・学生が主催するネット上の共感覚実験も多くあり、千人以上のデータを公開していますが、ここから得られる結論は、「ネットができる環境にあり、かつ定型発達で言語障害がないがためにネットの文章を読解することが可能であり、かつネット上でおこなうタイプの実験に参加する意志を有する、大学生を中心とする日本人のうち、共感覚を有する者を調査したところ、男女差が小さいことが分かった」ということであって、そこから「男女で共感覚者数がほぼ1対1であった」という見解は出てこないはずです。

 私の結論としては、そういうことです。




共感覚は本当に実在するのですか?
(共感覚者を自称する職場の同僚を信用してもよろしいでしょうか?)
(共感覚は、「人に話を聞いてもらいたい」というわがままによる虚言ではないでしょうか?)

 類似のご質問を数名の方から頂きました。うち、掲載許可を下さったお一人の例を挙げています。

 岩崎様、共感覚は本当に実在するのですか?
 正直、どうも疑わしいです。

「文字に色が見える」とか「音階に色が見える」と言ったところで、学歴や仕事の業績、英語の能力のように数値化されず、いくらでも嘘がつけますし、なんとなく神秘的な人間に見せることができるため、便利です。

 それに、共感覚者には障害者的な人、自分に自信が持てていない人も多いようですし。
 傲慢な言い方になりますが、共感覚は、ただの目立ちたがり屋というか、アダルトチルドレン的な人、子どもっぽい成人が思いついた絵空事ではないでしょうか?

【私からの回答】

 今でも共感覚の存在を疑っている方がいらっしゃることは、私も存じ上げていますし、かなり関心を持っています。

 私も「共感覚」と「発達障害などの各種の障害」とを結び付けて探究しておりますが、その結び付け方のニュアンスがあなたとは全く異なる気がします。先に挙げた方々のご質問における「共感覚」と「精神疾患・精神活動・感受性など」との結び付け方と私の結び付け方とが似ていて、これらとあなたの結び付け方とがかなり異なっている気がします。

 それにしても、これだけ「私には共感覚がある」と言って回っている私が唐突にこんなことを書くと、驚かれるかもしれませんが、あえて書いてみますと、共感覚に限らず、万物は幻想であるかもしれないし、かつ万物は実在であるかもしれない、というのが、私の考えです。

 ある物事・現象・概念が「ある(ない)」とはどういうことなのか、あるいは「ある(ない)と信ずる」とはどういうことなのか、それはヘーゲル、フッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティなどをお読みになって、存在論(オントロジー)を勉強していただくと面白いと思います。私は、これらの哲学が大好きで、共感覚との関連でも追って勉強しています。他にも、私は仏教哲学が好きで、中観・唯識・禅などの分野や、仏陀や竜樹といった過去の仏教者たちの考え方も見ています。もっとも、今は特定の宗教・宗派など関係ありませんが。

 ともかく、哲学書でも、論理学書でも、仏教書でも、聖書でも、クルアーンでも、何でもよいので触れてみた上で、「存在の有無」とはいかなることかについて、ご自身なりのお答えをお持ちになることをお勧めいたします。

 ちなみに、よくあるような「かつては共感覚者は差別されていたが、次第に共感覚者の存在が認められるようになってよかった」という説も、私は採りません。事物・事象の有無を実体論一辺倒でとらえる議論そのものに興味がないためです。

「ある(ない)」・「ある(ない)と信ずる」とはいかなることかを考え込んだことがなければ、共感覚の存在を信ずるにしても、信じないにしても、あるいは共感覚者当人であっても、特に違いはないというのが、私の意見です。




部下の共感覚者が鬱陶しいです。指導するにあたり、アドバイスをいただけますか?
(共感覚や学習障害を社会に持ち込む人をどうにかしてほしいです。)
(世の中はなぜ共感覚ごときで個性だ個性だと騒ぐのですか?)
(ほとんどの共感覚者は、実際は大したことのない感覚しか持っていないのでは?)

 類似のご質問を数名の方から頂きました。うち、掲載許可を下さったお一人の例を挙げています。

 岩崎純一様

 私は女性ですが、最近共感覚や感受性といった奇妙なものをテーマに持ち出してくる部下の若い女性たちを見るとイライラします。事務作業を頭で色分けしているなんて、気持ち悪いです。仕事にそんなものを持ち込むなという感じです。指導するにあたり、アドバイスはございますか?

 申し訳ありませんが、私はなぜか、女性がよくやるようなペンの色分けや、ノートがカラフルに小奇麗に書かれているのを見ると、イライラします。乱暴かもしれませんが、そんなものはさっさと次の仕事の集中力やチームとしての動きに回せ、と思います。

 共感覚はそんなに暇がある人にしか身に付かない感覚なのかとさえ疑います。

 ある文字が赤い色の味で別の文字が青い色の味という感覚など、私などには意味が分かりません。そんなことを感じたことも思ったこともないのです。幸いなことに、私はそれなりに社会的地位があるので、女性的である暇などなく、忙しい毎日を送っております。

 女性の個性・感性云々を言っている暇があったら、女性の精神的・経済的自立を目指さないと、子育てもできないと思っております。別にあえて個性・感性を言わなくとも、また、片親・シングルマザーであっても、今は子供は育ちますし、そんなことが子供の心や道徳に影響を与えるということを、私は信じておりません。

 女性の共感覚や女性らしい目線のデザインなど、発想が稚拙で鬱陶しくて仕方がありません。共感覚の男性やアスペルガー・発達障害の男性も、社会向きでないため、仕事の仕方などを見ていてイライラします。

 感性といったことを職場の空気に持ち込むことから卒業し、世の女性・母親がまず強くないといけません。

 機転と申しますか、自分を抑える時は抑え、スムーズにサッと気配りができる人間になるということを、部下の女性に指導することに四苦八苦しております。

【私からの回答】

 なぜあなたがイライラなさるのか、その答えはご自身で探求されるしかない気がします。

 あなたが告白して下さった本心は、社会的地位のある女性がしばしば持っている人間観・価値観であるというのは、ひしひしと感じます。ある意味、典型的な例を示して下さいましたので、勉強になります。最近は、女性企業家・経営者、一部のフェミニスト・人権団体・NPO、女性官僚、教育ママの方々などの間でも、このような考え方の女性が増えているというのは感じています。

 むしろ、あなたのご意見は、昨今の労働環境問題、パワーハラスメント問題、少子高齢・晩婚化社会への私の関心を過剰に呼び起こします。

 あなたのおっしゃっていることは、共感覚というテーマとはもはや別物であるようにも思います。私がそこかしこで「女性疎外」と呼んでいるものに思えます。女性を傷つけるのは男性ばかりではないということが、私に分かるばかりだと感じます。

 ちなみに、私は個人的には、イライラしている時間のある女性より、文字を色々な色に塗り分けざるを得ない感受性に毎日忙しい女性のほうに関心があります。そして、後者のような感受性豊かな女性の存在が子供や周囲の人間や国におのずから良い影響を与えるということを信じます。ただしそれは、「母子家庭で育った子は感受性に乏しい」ということを全く意味しません。しかし、これをどう解釈するかは人それぞれなのだと思います。

 人間にはそれぞれの専門分野や得意分野というものがあるかと思います。画家は絵画が専門であり、物理学者は物理学が専門であるように、私は現代の日本社会に生きにくさを感じておられる方々の心や知覚のあり方を観察することが、専門というよりは、得意です。あなたのようなイライラは、申し訳ございませんが、得意分野ではないと言えます。

 もし一点だけあなたに共感できるとしたら、あなたのおっしゃる部下が、「私は人と違って共感覚で苦労して生きてきたのに、上司が私に振り向いてくれない」と一方的に嘆いているような場合です。確かに、このような人は増えてきている気がします。若者だけでなく、高齢者にも多いと感じます。もしあなたがおっしゃっていることがこれであるならば、併記させていただいた「世の中はなぜ共感覚ごときで個性だ個性だと騒ぐのですか?」という別の方のご質問についても、同じ回答をしたく思います。

 この点だけは、あなたに同感できる部分があります。例えば、テレビの長時間番組などで、障害者のスポーツや生活をカメラで追いかけ、それを絶賛するような障害者特集がよくありますが、こういったことに対して私は違和感を覚えます。マスコミ側と障害者の家族の双方に責任がある、そして時に障害者当人にも責任がある、というのが私の考えです。

 あなたの主張がこれと同様のものであるならば、その点にだけは共感します。

 ちなみに、あなたが拙著や私のサイトをどのくらいお読みになっているかは存じ上げませんが、そもそも「共感覚の発生機序自体は個性ではない」というのが私の立場です。自分に血液が流れていることや自分が呼吸していることを「個性」だと言う人はいませんね。それと同じことだというのが、私の立場です。

 むしろ、共感覚の発生機序は、近代的個性がもし削ぎ落とされても人間の原初的・普遍的な知覚の機序として残存する可能性があるものである、というのが私の考えです。