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直観像記憶と共感覚

(2013年7月20~23日執筆。)

●直観像記憶と共感覚

 喪失した共感覚を書いてから、七年が経ちました。相変わらず「共感覚を用いた能力のうち、数学に関する能力が、時が経つごとに優先的に衰えている」という私の共感覚の特徴は変わっていないようです。 基本的な共感覚著書で挙げた個々の数字の色だけは今でも明確に知覚されているのが不思議なくらいです。

 上記ページを書いたのち、私の元には「あまりによく分からない感覚なので、もっと分かりやすく教えて下さい」というご質問やご相談を頂きました。唐突ですが(しかも、分かりやすくなっていなかったら申し訳ないですが)、二つほど新たな共感覚の事例を紹介しておきます。

●チンパンジーと私の直観像記憶

 一つ目です。突然ですが、以下に三つの映像をリンクしましたので、ご覧下さい。「直観像記憶(映像記憶・Eidetic memory)」にご興味のある方にとっては、面白いと思います。

 私は今でも、以下の実験のようなケースでは、チンパンジーやサルに近い直観像記憶を示せる状態にはあると言えます。画面に映った1から9までの数字に瞬間的に色が付いて見えるので、その色の順番に押せばよいわけです。正答率が、体調・天候・部屋の環境によって違ってきますが。

 そのため、「数学の解法がより一般的に」なり、喪失した共感覚にあるような「正答に直観的共感覚能力で達する解き方」をしなくなったというだけで、「数字に見ているものは何ら変わっていない」のかもしれません。

私自身の共感覚による直観像記憶の動画
私自身の共感覚による直観像記憶の動画

↓YouTubeで見る

チンパンジー・アイとそのなかまたち(京都大学霊長類研究所)
 動画集のところに以下のような色々な動画が掲載されています。

京大の論文“Working memory of numerals in chimpanzees.”

 この手の実験結果の分析によく見られるのが、「チンパンジーも、数か月、数年をかけて訓練すれば数概念を理解できるようになることが判明した」というもので、上の映像の実験もそのこと、つまりは「チンパンジーの知能」にまつわる知見の確立を狙っていますが、私はこれには少し疑問を持ってきました。

 チンパンジーは究極の「直観像記憶家」であって、数概念を理解せずに「数字の形状」の「写真」を頭で撮り、画面を押しているだけではないかというのが、私の感じ方です。

 私も、このような実験の回答において、瞬間的に抽象的・記号的な数概念を記憶してから色に対応させているわけではないです。そうではなく、瞬間的に「目と頭で写真を撮る」のです。個々の数字は見ていないです。結論から言えば、「数」が分かっていなくとも、順序を答えることができます。いわば、「チンパンジーの見ている世界や気持ちが分かる」といったところでしょうか。

 ただし、同じ「数」を表す記号であれば、アラビア数字であっても漢数字であってもサイコロの目であっても、私には同じ色に見えます。「6」も「六」も「・・・・・・」も青紫色です。明らかに「数の大きさ・小ささ」を思惟している証拠です。この点ばかりは、私がもはや原初的な「ヒト」というよりは、現代の「人間」である証拠だと思うのです。

「ならば一体、形状の“写真撮影”と数概念の理解のどちらが先なのか」といつも言われるのですが、ここが相当に説明が難しいところなのです。ほとんど同時と言うしかないです。映像で示した以上に早く色が付きます。

「感覚・知覚(低次能力)」と「思考・理解(高次能力)」とに落差を付けることを「停止」して得られる、こういったチンパンジーや私の直観像記憶は、私なら少々自分の東洋哲学趣味を入れて説明することになるのですが、西洋哲学ですと、例えばベルクソンの言う「純粋知覚」を思い出していただくのがよいでしょう。オーソドックスな日本人哲学者がよければ、西田幾多郎を読んで「純粋経験」や「行為的直観」を学ぶのもよいと思います。

 数字だけではなく、普通の文章を読むときも、私は漢字や仮名に見える色を追って読んでいますし、二冊目の拙著で「対女性共感覚」と名付けて告白した共感覚も、「直観像として女性の写真を撮っている」感覚です。小学生の頃、1990年代の国産車であればヘッドライトの形状だけで車名を当てることができていたのも、この直観像記憶によります。

 ということは、もしチンパンジーが数概念を理解せずに共感覚を用いているとしたら、「6」も「六」もサイコロの目の「●●●●●●」も瞬時に異なる色彩に見えているはずですから、人間の私よりももっと多様で難しい並びの数字・文字・記号の羅列を記憶できることになると思います。

 結局のところ、上記の長い訓練において、「チンパンジーはほとんど何もやっていない(生得的な知覚能力だけで余裕で数字の順番を答えている)」というのが、私の見解です。チンパンジーが「何もできない存在」というわけではなく、「人間が訓練を施したところで、直観像記憶能力がびくともしていない存在」という意味です。

 ただ「数字の形状」と「順番」との対応を、チンパンジーなりの直観像記憶・共感覚的能力・純粋知覚において再現しているだけだと私は感じます。

●天才と共感覚

 ところで、『週刊現代』2013年4月20日号の「賢者の知恵」に、天才と数学と共感覚の関係にまつわる興味深い記事が載りました。

(↓以下のページで読めます。)
「天才」と呼ばれた人が、本物の「天才」に出会ったとき【第1部:理系篇】名門高校の神童? 東大理Ⅲ? それがどうした!大学に入って分かった「オレは大したことない」(『週刊現代』2013年4月20日号)

 記事の内容としては、「自他共に認める天才で、東大入試が朝の歯磨きと同レベルにしか感じられず、余裕で東大に合格した人が、自分以上のひらめきや共感覚を持っている日本や世界の天才たちに出会い、徐々に自分の傲慢さを認め、自分の道を模索していった」という、よくありそうなパターンであり、かつ「バカと天才は紙一重」という、これまたよくあるフレーズも用いてある記事です。

 要するに、記事の体裁そのものは、週刊誌らしい商業的諧謔を免れ得ない非学問的な体裁ですし、個人的に首肯しかねる箇所もありますが、しかし、挙げられている方々は素晴らしい感覚能力の持ち主であって、内容は非常に面白いと私は感じました。

 共感覚者は、なぜかいつも決まりきったように「天才性」と結びつけて語られます。ある意味では、これも非常に「テレビ的・喧伝的」な発想だとは思います。

 ただし、私も必ずしもそのような発想を良くないと思っているわけではなく、実際のところ多くの人が、共感覚者が訴える感覚世界に強く憧れているのは事実ですし、あるいは、人間そのものが常に「共感覚的・天才的な何か」を持つ子どもとして生まれる存在だからこそ、そう思うのではないでしょうか。

 今回の雑誌記事を読んで、私は極めて安心しました。この記事に登場する方々を、恐れ多くも「仲間」だと思いました。「仲間」というのが、決して「同じ東大に行った仲間」という意味ではありません。「ある問題・学問の答えや物事の結末が共感覚や直観力で見える仲間」、「周囲の東大生からも浮いていて、精神的に苦しい青春期を全国のどこかで別々に過ごした仲間」という意味です。

 こういう方々は、むしろ学習障害児などの発達障害者の見ている世界や苦悩が分かるのではないかと思います。なぜなら、私自身が、そのような子どもたちを見ていて、そうだと感じる(自分が彼らの見ている世界や苦悩を分かっていると感じる)からです。

 私は東大文科三類に入りましたが、これは数学と日本史・世界史で合格したようなものだと言えます。英語・国語は、東大を受ける文系の人なら皆成績が良いのです。文系の数学は4問出題されますが、英語・国語の成績が抜群であれば、数学は1問でも正解すれば、合格できます。私は、単に数学で3問解き、4問目も途中まで書いたので、合格できたと思います。

 しかし、私が東大数学を解くのに「頭の中で」用いていた解法は、結局は喪失した共感覚のようなものでした。先に数字の空間配置や共感覚的色彩感によって見えた答えに合わせるように、途中の微分・積分やベクトルを「設置」していくだけであって、「答えが見えない」ということのほうが私にはよく分からなかったです。

 日本史・世界史についても、まずは年表を眺め、頭で年表の写真を撮っていました。これも先述の直観像記憶です。こう書くと、まるで苦労していない人間のように思えますが、ここで言いたいのは、そういうことでは全くありません。

 そうではなく、「生きる上で別の苦労があるのだ」と言うだけで、共感覚による直観像記憶の保持者の方々には分かっていただけると思います。社会人になって、重要な会議に出ているときに、壁にかかっている絵画までが目に映り頭に入ってきて、集中できないときのことを考えてみていただけるとありがたいです。

(とは言っても、私の場合、ずる賢くなってきたのか、最近は自分の共感覚を抑え込んで職場の同僚に見せない能力に非常に長けてきたので、あまり問題がないのですが。)

 ところが、このような共感覚による数学能力ばかりを優先的に失っていったというところが、私の共感覚の特徴だと思うわけです。歴史の暗記に関しては、まだほぼ昔のままのところがあります。しかし、数学能力に関しては、先の雑誌記事に挙げられた方々のすばらしい能力に及ぶべくもありません。私から見ると、挙げられた全員が天才に思えます。

 私の共感覚による直観的な数学能力のなごりは、現在はもっとメタ数学化・超数学化して、岩崎式日本語の考案時の数理論理学的直観や言語哲学的直観に現れていると思います。これらに関しては、「直観的な数学能力のなごり」というよりは「直観そのもの」と言えるかもしれませんが。

 ただし、昔よりも洗練されてきた代わりに、雑多な面白みに欠け始めました。つまりは、昔よりは「計算高い」共感覚の使い方をしているような気がします。しかし、計算高く精神を張りつめていなければ、重要文書の法的処理や会議など、普段の仕事ができなくなるので、致し方ない面があります。

「数字や数学などという抽象概念が分かっていなくとも、数字(というより形状)の順序は、複数のエサの場所を巡る順序と同じように、チンパンジーには分かるのだ。人間の発達障害者の見ている世界も、それに近いところがあるのだ」と、私は思います。

 結論としては、先の映像に登場したチンパンジーも、先の雑誌記事に載っている「天才に出会って打ちのめされた過去の天才」の方も、「その天才の上を行く天才」の方も、繰り上がりの足し算ができないにもかかわらずパズルやルービック・キューブがすぐに解ける発達障害者も、私から見れば、「同じ直観能力、同じ純粋知覚」タイプの、敬意を払うべき天才だと思えるのです。

 私はこれらの方々ほどの能力はありませんが、同じ「直観屋」の一員としては、これらの方々の述べていらっしゃること、何より気持ちが本当によく分かります。