岩崎純一のウェブサイト > 精神病理学・精神疾患研究 > 私の考え・思い・持論
サイトレイアウト切り替え
  • 主にデスクトップ向けのレイアウトに切り替える
  • 主にラップトップ向けのレイアウトに切り替える
  • 主にタブレット向けのレイアウトに切り替える
  • 主にスマートフォン向けのレイアウトに切り替える
  • 主に旧型モバイル向けのレイアウトに切り替える
ページ内移動

私の考え・思い・持論(主に2009年 筆。ブログ記事などは後から追加。)

 私はささやかながら、主に著書によって「共感覚者」として読者・学者の皆様に知っていただけることとなり、被験者として共感覚の検証実験に参加したり、共感覚関連のインタビューを受けたり、大学の講義で取り上げられたりしているわけですが、共感覚だけでなく、私が著書・サイト・ブログ・講演などで述べている「人間(日本人)の感性全般」についての持論(いわば「モノの考え方」)に関心をお持ちの方々からのご質問・ご相談も頂いてきました。とても嬉しく思っています。

 私が普段、「人間の感性・心の病・日本人のあり方」についてどのような意見を持っているか、以下に項目別(●)にまとめてみることにしました。今後、私宛てに相談・質問・取材メールを送って下さる時の助けになれば幸いです。

 私の「物事の語り方・日本観の特徴」は、ひと言で言えば、「あえて特別な用語で名指しされ、脳をターゲットに研究されるようになった日本の社会的少数者・非定型発達者(共感覚・鬱病・対人恐怖症・解離性障害・自閉症など)の諸感性・心・人格」の中に、「社会から逸脱した異端的な個性」ではなく「人間らしさ・日本人らしさの本質」があると見て、これらを肯定し、その疎外感を「戦後の米国型・新自由主義型の日本社会のひずみ」との関連で「生(せい)の哲学」として語るところだと自分では思っています。

ブログの参考記事:感受性豊かな人間が好きである(2010/11/25)


私の鬱病観など

●日本語で「鬱」・「ノイローゼ」・「不定愁訴」などと表現される心理状態(いわゆる旧「鬱病」だけでなく、旧神経症・ノイローゼ、現在の不安障害、身体表現性障害、単極性障害・双極性障害などを含む)を病理(寛解や治癒を目指す目的論的な異常事態)と見ることに元来強い疑念を持っている。

「人間が悩む」ことを許さない社会は不健全であると考えている。

●SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)などの使用(摂取・注入・投与)は、強制的に脳神経系に化学的・電磁気的改変をもたらすため、多くの場合、即効性はあるし、短期的には有効だが、主に営利企業である製薬会社の都合というものをしっかりと常に念頭に置いて、薬と向き合い、生きていくことが、自分のためにも人のためにもなるのではないだろうか。

 昨今、鬱病(単極性障害)・躁鬱病(双極性障害)・統合失調症患者などの薬物過剰摂取が問題となっており、最近では、厚生労働省が統合失調症薬「ゼプリオン」について、この薬が直接の原因と疑われる統合失調症者の死亡例が21件にのぼったことから、安全性速報(ブルーレター)を出した例が記憶に新しい。

 しかし、薬物とは本来そういうものである(副作用がない薬物は存在しない)とも言えるのだから、どんな市販の風邪薬を買って飲む時であれ、全く同様の覚悟がなければならないのは当然のことであると考える。

 元より、製薬会社も一つの営利企業であり、ゴーイングコンサーンを有するのであって、経済学上のゴッセンの法則・限界効用理論に基づき、患者の存在(精神疾患にかかり、可能な限り長期に渡って薬の需要を感じ、なるべく疑念を持たず金銭を払い続ける人間の存在)の増加を組織的に期待せざるを得ない。

 すなわち、患者の症状の寛解・治癒は、製薬会社にとっての脅威であり、最終的には当然その阻止が図られると共に、社会自身によるさらなる患者(消費者)の創出が期待されることとなる。

 その製薬会社の営利追求行動自体は合法的であるのだから、かえって、薬物を使用している患者自身や患者に使用させている家族や医師が薬物そのものや製薬会社を過剰に責める態度にさえ疑念や悲しみを感じ、そのような現状そのものから超然として、「自分ならば、全く薬物を使用せずに日常の苦悩と向き合う(精神疾患と向き合ってほしいと患者に対して思う)」という価値観・死生観・自由意志を持っている人の存在も、もっと認められてもよいはずだと思う。

 私としては、最終的には家族愛・恋情・友情の喜び・大自然といったものこそが、症状に対して薬物を超えた大きな効果を与えるものであろうと考えているし、また、それら以外に患者に心底から寄り添えるものは本当はないのではないかと考えている。すなわち、心底寄り添い合った医者と患者の関係は、すでに家族的・友情的であるとも考える。

●昨今は「単極性障害」と「双極性障害」の明確な峻別が叫ばれる風潮にあるが、実際には、曖昧にしてもかまわないような連続的な症状の患者が無理矢理に「単極性」と「双極性」に峻別されていたり、逆に、「鬱病」や「不安障害」や「神経性障害」を診断された患者どうしのほうが極めて似ていて、十把一絡げに「双極性障害」を診断された患者たちの中に、実際は(異なるどころか)気分障害を含まない別の症状(人格障害など)ではないかと思えたり、そもそも気分障害ではない症状が「単極性」または「双極性」に入れられたりしている患者がいると思えることが何度もあったし、現在でもある。

 単極性・双極性障害については、双生児における同時発症率が高く、親子の同時発症率も高いとの報告が複数あることなどから、統合失調症と同様にストレス脆弱性モデルで説明されたり、先天性疾患である可能性が主張されたりすることがある。

 ただし、そもそもこれらの罹患者がストレスに脆弱であったり先天的にこれらの症状を有していたりするとは、これらの症状への「なりやすさ」を生得的に持った人がいるという意味でさえなく、これらの症状こそが人間の受精卵期の生物学的に本来的な事態であって、その中からやがて近代的な意志というものが立ち上がってくることで人間は「近現代的なまでに冷静な(冷徹な)」自己を獲得したという意味であると、私は考える。

 結局のところ、言えるのは「双生児間で発症のしやすさが同程度に高い」といったことのみであるし、双生児のほとんどが同じ親によって同じ環境で育てられる上、現在「医学的に正しい報告」とされているものは、その検証実験の設定などが症状の寛解を目指す目的論的かつ弁証法的な宗教思想に立脚しなければ生じ得ないものであり、私が思い描く「鬱そのものの非病理性」や「人や社会が鬱的存在でなくなることの病理性」、すなわち「鬱者は結局のところ何も発症していない健常者である、という考え方」とは立脚点や着地点が異なる思想による主張である気がしている。

 実際に日本人の鬱病者は、医学的定義の「鬱病」や「不安障害」や「神経症性障害」との重層的な症状を呈することが多いと感じる。

●健常者社会に溶け込めずにいる一定の層が鬱病者なのではない。鬱とは、病理ではなく、人間存在のデフォルト(初期標準設定)の表現型を懐古した者の精神状態であると考える。人間存在の基本はそもそも鬱(メランコリ)であり、我々はレジャーの発明や市場競争原理によって異常な躁病状態を獲得したのであり、日本人健常者と呼ばれている9割の層の全体に「集団躁病」などの病名が付されなければおかしいと考える。

 そのことは、ニーチェ・ハイデガー・西田幾多郎・九鬼周造・久松真一などの東洋的「生の哲学」からも語られるべきものである。

●さらに、現代日本は「健常者(定型発達者)」が「鬱病者」を疎外している社会ではなくなりつつあると考える。「鬱病」や「単極性障害」や「双極性障害」を診断された者よりも「鬱」を自覚する人間の方が疎外されているのであって、健常者と鬱病者たちが心理的タッグを組んで鬱者を疎外している可能性を、社会学的に十分に注意して観察するべきだと思う。

 鬱病者は歩いて病院に行くが、重度の鬱者は布団からも出ない。すなわち、鬱病者はすでに健常者の一角である。布団から出ない人間の存在が知られないことが問題なのであり、鬱病が問題なのではない。

 特に、一度そうと診断されると積極的に休職する傾向が高いことが問題視されている、若年者に多い「新型鬱病」の登場によって、日本人の日常会話における「鬱病」とは、この軽度の抑鬱体験反応としての「新型鬱状態」を指す程度の語となってしまい、従来型の重度の鬱病者の存在が忘れられようとしている。
(本来、「新型鬱病」という診断名・疾患名は存在せず、マスコミによる造語である。)

 日本人に鬱病が増えているという言説は疑わしい。「人生の苦悩」に「鬱病」なる用語が与えられたことに対して鬱を感じる者こそ、本当の鬱であると思う。また、日本人は特にそのような鬱を再獲得するべきであると思う。また、そうでない限り、日本人を知的・客観的だと言うことはとてもできないと思う。

ブログの参考記事:鬱病が鬱病を疎外する~「本当の鬱病は美しいもの」~ (2010/12/1)

●病気のスイッチが「無理矢理に」入ることによってではなく、高次な自己の成長、確固たる個人性の発達という人間なりの無理難題がたたった状態を無意識がおのずから辞退して、その自己・個人性のスイッチを切り(いわばその人なりの健康状態に回帰しようとして)陥るのが、統合失調症や鬱であると考える。従って、人間以外の動物は常に統合失調症的かつ鬱的であり得るとも考える。

●ここ十数年の傾向として、アメリカ精神医学会や世界保健機関は、操作主義(operationalism)を徹底し「精神疾患のグローバル的記述」を完成するために、様々な策を試み、例えば(前者は特に積極的に)従来の「神経症」の概念を放棄した。これにより、「強迫神経症」は「強迫性障害」に、「不安神経症」は「不安障害」や「パニック障害」などになった。

 日本人は、器質的・遺伝的な「障害」の概念ばかりに注目するのではなく、同時にこれを段階的にさかのぼって、再び「神経症」の概念を懐古するよう、心がけたほうがよいと思う。

 日本人までもが「神経症」の概念を放棄し、江戸・明治・大正・戦前期にせっかく積み上げた古い日本・欧州の人間観から米国型の人間観に大きく舵を切ったことには、少なからず反省すべき点があると思う。

 精神疾患・世界認識の完全にグローバルな記述などあり得ない気がする。それがあり得るのは、文法言語を持たない同種の動植物のみであると思う。日本人が悩むということは、日本語の文脈で悩むのであると、私は考える。

 例えば、こと女性の鬱病や対人恐怖症は、(死語となりつつあるが、)「はじらい」や「しとやかさ」などの日本の自然・風土や日本文化が育んだ心と深い関係があると考える。

ブログの参考記事:人の悩みをそのまま受け止めてみている(2010/11/5)

●日本の精神科医・カウンセラー・作業療法士・言語聴覚士・社会福祉士など、精神医療にかかわる多くの有資格者及び資格試験の受験者が意識的または無意識的に浴びることになっている操作主義、及び操作主義的思考によって構築されたアメリカ精神医学会のDSMや世界保健機関のICDとは別に、日本独自の新たな疾病分類をも構築し、国内で保存・運用してみるのもよいのではないかと思っている。

●また、その日本独自の疾病分類を無理に輸出したり、他民族の脳や身体に強制的に適用することもやってはならないと思う。さらに、文化依存症候群・民族依存症候群を重視して、対人恐怖症・巫病など日本人の精神性に基づく疾病概念を正確に打ち立てることが望ましいと考える。

●DSMにはまだまだ不備が多いと感じているが、特に「解離性同一性障害と統合失調症が完全に別の疾患である」という前提に疑念を持っている。それぞれの症状に罹患したと診断された方々に実際にお会いしてきたが、それぞれの疾患が内包する全ての症状を要素とする二つの集合A・Bを考えたとき、AとBは交わっており、積集合A∩B(すなわち、解離性同一性障害と統合失調症に共通する症状)は空集合ではなく、両疾患の差異は、和集合A∪Bの要素のうち差集合A\BとB\Aのどちらの要素を多く持つかによるものと感じられている。

●共感覚者数の割合に関する言説(2万人に1人、200人に1人などの学説)は、我々共感覚者にしてみれば、極めて不透明なフェルミ推定による不可解な結論で、特に意義・根拠はない可能性があると感じる。

 それに代わって、「人間は全員が共感覚者であり、また子どもの感性・童心とは共感覚的な心そのものなのであり、あえて共感覚者と呼ばれる成人の条件のほうを厳しく設定すべきである」という風潮が起こったほうが健全ではないだろうか。

●「共感覚」なる科学的なテクニカルタームがなければこの感覚を持つ子供の存在が理解・認識できない母親で溢れた日本社会は、かえって不健全な社会ではないだろうか。「共感覚」なる語や概念を利用して共感覚を他者に伝達しようとする我々共感覚者自身も、そのことに留意すべきではないだろうか。

●バブル崩壊と、共産・社会主義諸国の崩壊、マルキシズムの絶望が起こったあとに20代を迎えた我々の世代の男性にとっては、「恋人・妻・子どもを持つこと」と「資本主義・新自由主義・市場競争システムに対して適応障害を起こさずに溶け込み、勝利する男性でいること」とは同義にならざるを得ず、これが日本における「男性のみの自殺の異常な増加」をもたらしたと私は見ている。

「私は男性らしい男性であるという誇り」の本質は前者であるのに、その前者を得るためには後者を通過しなければならない不条理がある。

 また、女性は女性で、最初は目に見えて目立つ地位と所得層の男性に「幸せの幻想」を抱いて家庭に入るも、マリッジ・ブルー、マタニティ・ブルー、DVなどに苦しみ、本当の恋や結婚の楽しみや切なさを感じる心の余裕を逸している女性があまりにも多いように思う。

●複雑化・高度化した戦後日本の市場競争主義・鬱病社会を打破する極端な策として、政治・経済システムの側面に「共産主義」(ないし「社会主義」、「アナーキズム」など)、文化システムの側面に「保守思想」があるとすれば、「共産主義」と「保守思想」とは、今の日本の若者の思考プロセスの中では簡単に手を結びやすいと言えると思う。

 小林多喜二の『蟹工船』がブームになったが、これを読んでいる若者が一方で靖国参拝もおこなっている現状は、思想の齟齬ではなく、同じコインの裏表であると考える。私は特定のイデオロギー・政治思想の持ち主ではないが、「経済的に左、文化的に右」の舵を切っている我々一部の20・30代男性のメランコリ気質は、ある程度は正しいと感じる。

●戦後日本を形成してきた高齢者や団塊の世代が、今の若い鬱病者・ひきこもり・ニートに対して否定的意見を述べる正しい論理など、どこにもないと思う。

 今の鬱病者・ひきこもり・ニートは、安保闘争のような暴動という形態を取っていない「静寂な行動者」であると考える。暴力ではなく、「ただ動かずにいる」という、全共闘世代以上に長期的な効果のある方法、しかも合法的な方法で国家・政府を脅かしていると思う。

 意図的に怠慢である場合を除いては、鬱病者・ひきこもり・ニートのうちの一部は、正しい人間観と日本観と労働意欲とを有しているように思える。

 外に姿を見せて暴れ回った学生運動世代と違い、布団からも出ないのだから、統計も不正確であり、国家・政府にとってこれ以上の脅威と焦燥の種はないはずである。本当はそのことを分かっている日本人も少なくないはずである。


私の持論・仮説

第二ブログ
 高度に学術的な内容を書いているブログです。
私の仮説「共感覚原帰属性仮説」
日本的共感覚・日本的精神症状
乳幼児総共感覚者説
対女性共感覚
現代の巫女と一般女性とに共通する潜在的古代的共感覚について